モンゴル訪問記

 一度は行ってみたいと思っていたモンゴルに8月28日から31日まで訪問することができた。成田発の直行便で5時間半だが、2年前サハ共和国へ行った時より機材もサービスもまずまずだったが、日本海から中国東北部は厚い雲に覆われ地上は見えず。夜20時過ぎに空港に着くがまだ明るい。普段は北京標準時だが夏の間だけサマータイムで1時間早く、東京と時差がない。(それにしても広大な中国が北京標準時で統一され、韓国もベトナムもそれを採用しているのは考えさせられる。) 
 空港に本学のフスレ准教授がレクサスのランドクルーザーでモンゴル国立大学研究所長のバテイレドイ氏と迎えに来て、村田東大教授、市川国士舘教授と一緒にホテルに。途中遊牧民のゲルもみかけるが、高層アパートやビルがどんどん建設されている。モンゴル全国の人口が300万に対して150万人がウランバートルに集まっているそうだ。1970年代は30万だったというからその伸び率は大きい。
 モンゴル抑留者の研究をされているフスレ准教授によれば、ウランバートル中心街の政府機関のビルの多くは抑留者が建設したものだそうだ。ウランバートルホテルは共産党時代に中国の協力で建設された古い建築でがっちりしているがWi-Fiは使える。部屋に悪臭があるとフスレ准教授がホテルと交渉して変更。そのあと4人でおしゃべり。かねがね北帰後の元はどうなったか、清王朝時代の蒙古はどうだったのか、長年の疑問を専門家に聞けて楽しかった。フスレ准教授もテムジンの家系につながる名門ボルジギン氏で、北京大学に内モンゴルから合格した大秀才と知る。考えてみると元だけでなく隋唐も鮮卑族の流れだし、漢民族の明や南宋は文化は見るべきものがあったが王朝は弱体化していたのに対し、女真族の清の皇帝は勤勉で盛時を作り出した。元も少ない人口で、あれだけの大帝国を作り出したのはまさしくダイバーシテイを重んじ、他民族でも有能な色目人等どんどん登用からだ。残酷なだけでなかったから世界帝国を作り上げたはずだが、歴史は漢民族やヨーロッパの側から書かれていたのでnegative情報が多い。
 29日(土)朝9時にでて国立モンゴル大学日本文化センターで「日本とモンゴル、過去と現在未来―21世紀アジア新秩序の中でー」シンポジウム開会式、オヨーン議員も出席。清水在モンゴル日本大使の挨拶もいうべきことを言いさすがモンゴル専門家。
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 午前中のインタビューの予定が相手の都合で変更になり、皆さんの発表を聞く。モンゴル国立教育大学の学長とお昼。羊を石焼にしたモンゴル料理。そのあと昭和女子大学に研究員で来ていらしたミャグマルサムボーさんご夫妻と一緒に郊外の草原に。ゲルの中のレストランで馬乳酒を飲む。モンゴルはモンゴル族唯一の国として蒙古文字の復活やモンゴル語教育に力を入れているらしい。蒙古文字の軸をいただく。大草原はオーストラリアも共通だが、”草原の道”は歴史の回路。
 夜はシンポジウムの出席者の方たちと懇親夕食会。ウランバートルは大都会で星空は楽しめないが、皎々たる満月。
 30日(日)朝はモンゴル日報など3紙のインタビュー。まったくモンゴル語が分からないので、ちゃんと伝わったかどうかわからないので不安。11時過ぎにでてオヨーン議員のご招待で日本料理屋でお寿司、枝豆など。暗殺された兄上のことなどを聞く。終了後抑留者の慰霊塔へ。昭和女子大学の学生が昨年植えた木も何とか頑張っている。日本から多くのボランティアが植林を行っているが、その多くは枯れてしまっているそうだ。私もサジの木を3本植える。
 慰霊塔の周りは「異国の丘」の歌が思い出される丘陵地帯。政府要人もたくさん訪問されており谷内正太郎さんの花も。
 そのあと草原の道をチンギスハンリゾートへ。ずいぶん韓国の企業が進出しており、景観は変わっている。途中道端でワシとの記念写真。大きなスチール製のチンギスハンのある公園で、中には匈奴時代の青銅器の展示も。スキタイの動物文様と通じる意匠でとても精巧。生活系の機器より、矢じりや刀などがよくできている。
 帰りは日曜日の夕方で大渋滞が予想されたが無事18時半前にホテルに帰り、モンゴル人文大学院から名誉博士号を授与される。日本の女性の地位の向上ということで授与されたが、モンゴルの女性と協力して社会の進歩と発展に貢献できる女性を育成したいとごあいさつ。ガウンと帽子もモンゴルの宮廷服を思わせる。
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 大きなゲルのレストランに日曜の夜だというのに20人くらいの関係者が集まってくださる。モンゴルも社会変動の最中で家庭、社会保障などいろんな問題があるらしい。食事のボリュームが大きすぎてとても食べきれない。
 21時半にホテルに帰り荷づくり。
 31日(月)は6時半に朝食をとり、朝日とともにホテルを出て空港へ。帰りは5時間で成田に着く。