2016年11月

野に出でよ [2016年11月25日(金)]

 私たちの年代の卒業生にとっては、学寮と言えば茅ケ崎や大磯の寮を思い出します。望秀学寮はもちろんのこと、東明学林もまだ出来ていなかったからです。神奈川県大井町にある本学の研修施設「東明学林」は1977(昭和52)年の3月に竣工式を迎えました。

(東明学林から望む富士山)
toumei
 
 東明学林の「東明」とはもちろん、創立者人見圓吉先生のことで、先生の雅号です。東明学林は酒匂川を眼下に見下ろす12万平方メートルに近い自然の山の傾斜地をうまく利用して建てられた白亜の寮舎です。
 
 学林の入口近くには、創立者人見圓吉先生の詩碑があります。それは、富士山が一番美しく見える所に置かれていて、「ふるさとの碑」と名付けられています。先生の生まれ故郷、岡山産の赤花崗岩には、私の大好きな詩が刻まれています。
 
(ふるさとの碑)
ふるさとの碑

  
        人見東明

  
野に出でよ
あかときの光
草の葉 露にぬれ

地を踏め
やわらかに また
冷やゝかな
地をふめよ 足うらで

風さわやかに
木の葉を揺り
鳥の胸毛をふく

空を見よ
うつくしき空に
雲はたゞよう

野に出でよ 愛の野へ
野は自然の胸
つねに静かにして
安らかなり

 
 もうすぐ夜が明けそうな気配をわずかに見せつつも、まだ薄暗い「あかとき」。露のおりた草の中に足を踏み入れると、ひんやりとした大地を足裏に感じる。そんな感覚って、いつ体験したかはすぐに思い出せなくても、なんとなく分かりますよね。しっかりと足裏で大地を踏みしめると、いつも変わらずに自分を支え抱いていてくれる大自然の力が体に沁み込んで来るように思いませんか。
 
 東明先生たちと早稲田詩社を結成した野口雨情の田園詩集『枯草』の中に、「踏青(とうせい)」と題した詩があります。次はその1節です。
 

君よ青きを踏みたまへ
いざ野に出でて踏みたまへ
踏めば緑の若草に
ああ春の香は深からむ

 
 踏青とは、春の青草を踏んで遊ぶことや春に行われる郊外の散歩のことで、唐詩ではよく用いられることばだそうです。東明先生の詩も春に詠まれたのでしょうか。
 
 この歌碑の横には「学父の碑」があります。そこには東明学林開設当初から、創立者の分骨が祀られています。そして1995(平成7)年の3月には、これまで別々の場所に納められていた学母人見緑先生の分骨も合祀されました。毎年5月にはどなたでも東明学林内のツツジの花を楽しんでいただけるイベントもあります。是非、お訪ねください。そして、東明先生の歌碑と校祖夫妻の碑にお参りし、そこから正面に見える富士山を堪能してください。
 
(学父の碑)
学父の碑

秋桜祭 [2016年11月18日(金)]

 今年で第24回目となる秋桜祭(学園祭)が11月12日㈯と13日㈰の両日、快晴の秋空のもと開催されました。学生による実行委員会が企画・運営のすべてを取り仕切り、クラブ、クラス、研修グループ、プロジェクトグループ等に在校生や卒業生も参加して、多くの方々が「つなぐ」のテーマのもと、展示、プレゼンテーション、ステージパフォーマンス、バザーなど、盛りだくさんのイベントを繰り広げました。とても充実した2日間でした。秋桜祭のプログラムには、総務、庶務、会場管理、宣伝、企画、コンサートとトークショーのイベント担当など、総勢168名の学生スタッフの名簿が掲載されていました。大学全体のまとめ役として活躍された実行委員会の幹部の皆さんも、本当にお疲れ様でした。
 
(正門に掲げられた今回の秋桜祭の看板)
DSC_0498 
 
 秋桜祭が16:00に終了して、大方の片付けも終わった頃、帰宅の途につきました。大学前の国道246号で渋谷方面に行くバスを待っていたところ、女子学生らしき3人組が、大きな袋をもって、ウロウロとしているのが目に入りました。来たバスに乗った後に、良く見ると、ゴミ袋とゴミ拾い用のトングを持って、道路脇に捨てられたゴミを拾いながら歩いていました。本学の学生の様でした。どこまで歩いて行ったのかは見届けていませんが、多分、三軒茶屋駅の方まで歩いたのではないかと思います。同じバスに乗った中年女性の二人組の方が学生達を見て「あら、ありがたいわね」と話しているのを聞いて、「うちの学生です」と自慢したいくらい嬉しかったのですが、それよりも、バスに乗る前に「ありがとう、お疲れ様」と声をかければよかったと後悔しています。後輩たちが、最後の最後まで、きちんと気を配り、有終の美を飾ってくれたことをとても嬉しく思いました。
 
(秋桜祭の様子)
DSC_0529
DSC_0499
 
 本学では創立以来、学問研究の発表の場として大学祭が行われてきました。1955(昭和30)年3月の大火の後、秋の体育祭と同じように、春にも全学参加の行事をしたいということで、初夏の6月に「六月祭」と称して大学祭を行うことになりました。そして、その翌年からは付属校も参加することとなり、「昭和祭」と名付けました。1965(昭和40)年の6月には、三笠宮崇仁殿下が本学の「昭和祭」にご来館くださったことが、『昭和女子大学70年史』に記録されています。しかし残念なことに、1971(昭和46)年は学生運動の煽りをうけて、学科ごとに小規模な研究発表や展示は行いましたが、昭和祭には大学として不参加となってしまいました。すぐに学生から昭和祭復活の声があがり、1973(昭48)年に再開。その折に秋の「文化の日」の後に開催することになったのです。さらに1993(平成5)年から大学では「秋桜祭」という名称で、学生の自主的な企画・運営による学園祭が始まり、今日を迎えています。
 
(1970年前後の昭和祭の大学パンフレット)
20161117103159-0001
 
 来年の秋桜祭が今から楽しみです。

「朝風薫る武蔵野の緑ヶ丘・・・」ってどこ? [2016年11月11日(金)]

 校歌の第1節にある「武蔵野の緑ヶ丘」は、残念ながら、世田谷キャンパス近辺のことではありません。

 昭和女子大学の校歌は、実は、昭和女子大学と呼ぶようになる前から歌い継がれてきたものです。初めて校歌が歌われたのは、大正15 (1926) 年6月5日、上高田の新校舎の落成式でした。上高田の校舎は東京府豊多摩郡野方町上高田39番地にありました。野方町は現在の東京都中野区の北部にあたる地域で、明治22(1889)年の町村制施行でいくつかの村が合併して野方村に、さらに大正13 (1924) 年には野方町となっています。校舎の住所にある上高田はJRの東中野駅の近くです。武蔵野の「緑ヶ丘」は地名ではなく、上高田校舎の近くには小高い丘が続き、武蔵野の木々の緑が美しい地帯だからこう詠われた。
 
(上高田校舎全景)
20161110130853-0001 (1280x824)
  
 昭和20 (1945) 年に本学の前身である日本女子高等学院がこの世田谷の地に移転し、昭和女子大学とその名を改めたのが、昭和24年のことでしたから、昭和女子大学となるまで24年前校歌はすでに歌われていたことになります。学父人見圓吉先生が作詞されたその歌詞には、本学の教育の理想が込められています。
 

第1節後半 「学びの庭の八重桜色香も清く咲きみてり」
 本居宣長の「敷島の大和心を人とわば、朝日に匂う山桜」(日本人の心とは何かと尋ねられたら、朝日に照り映える山桜の花の美しさに感動するような心です、と答えよう)に詠われているように、日本人の心を大切にして、高尚な精神と卓越した識見を備えた人となりましょう。

第2節   「広き世界の学芸と古今の知徳照り映えて、~」
 広く学を東西に求めて、知徳を高め、周りの人々の模範となれる輝く人となりましょう。

第3節   「あらゆる者を育みて、育て上げしは女性なり、~」
 学を積み、知徳を磨いて人格を高め、その力を創造的に発揮し、人道を照らし、女性文化の高揚につとめましょう。

 上高田の新校舎落成式で歌われた第3節後半の歌詞は、

 女性文化の帆も白く
 海原遠く漕ぎ出たり

であったそうです。しかしその後、学父の意図で現在の歌詞「女性文化の帆を張りて 海路はるけく漕ぎ出たり」となりました。

 一方、作曲者は不明です。歌詞が完成して作曲をお願いしたはずの方に後に確認をしたのですが、ご本人の作だということがはっきりしなかったため、作曲者不詳となっています。
 
 昭和13年に英文学担当教授が英訳されたものが『昭和女子大学70年史』(p.84)に掲載されていました。

THE SCHOOL SONG

When the morning breeze is sweet
   In the Musashino’s field,
And the mild spring softly smiles
   In the green grass hill,
Cherries in the garden ground
   Of our learning’s home
Blossom out in colours bright
   And with sweet perfume.

Learning of the world-wide breadth
   And all sorts of arts,
And achievements, old and new,
   With resplendent light,
In the mirror, bright and clear,
   Of eternal life,
Shine reflected in the blue
   Of the heaven above.
 
To bring up all things of life
   To their perfect states
Is the virtue that belongs
   To maternity.
In the ship that hoists the sail
   O’ cultured womanhood,
O’er the ocean’s waves we glide
   Onward and afar.
 
March 22, 1938
Translated by Tetsuzo Okada

 
 問題:上記の英詩を日本語にしなさい。

 もちろん、全員正解ですよね!?

恩師同窓の墓 [2016年11月04日(金)]

 毎年11月には世田谷区若林にある松陰神社で、恩師同窓の合祀慰霊祭が行われます。
 まだ上高田に校舎があった昭和15(1940)年、創立20周年の記念事業として、学父人見圓吉先生は「恩師の墓」を、さらに昭和18(1944)年には「同窓の墓」を、亡き恩師、校友と学園が将来永久に精神的に結ばれていることの証として、校舎近くの清原寺に建立されました。
 
(清原寺にあった恩師同窓の墓)
20161102173229-0001
 
 その後、校舎が上高田から世田谷のこの地に移り、昭和36(1961)年に「恩師の墓」と「同窓の墓」が世田谷キャンパスの近くにある、学問の神と崇められる吉田松陰が祀られている松陰神社の境内の霊園に改葬されたのです。

(現在の恩師同窓の墓)
20161102163232-0001
 
 松陰神社は、東急世田谷線の松陰神社前駅を降りて、松陰神社通りの商店街を北に歩き、約3分位の所にあります。境内には吉田松陰の墓所をはじめ、松陰門下の伊藤博文、山縣有朋等によって奉納された32基の石燈籠も並んでいます。また、山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模した建物を見学することもできます。
 
(松陰神社)
20160901_6829
 
 松陰は天保元(1839)年、長州藩(現在の山口県)萩で毛利藩士であった杉家に生まれました。11才で藩主の毛利慶親公に山鹿流兵学の『武教全書』を講義した程の勉強家でした。その学問の幅は広く、西洋の文明や兵学についても深い知識を持ち、下田沖に停泊中であったペリーの軍艦に乗船してアメリカに連れて行ってもらうおうと懇願したこともありました。嘉永6(1854)年のことです。

 この計画が失敗に終わり、江戸、そして萩で投獄されましたが、萩にいた1年2か月間に約600冊の本を読破し、同じく投獄されていた人々に『論語』などを教える傍ら、海外の強国から日本をどう守るかを研究しました。安政2(1856)年に松陰は許されて杉家に戻り、そこに孟子の教えを学びたいという若者が多く集まることとなり、叔父の玉木文之助が以前に開いた松下村塾という名を付けた塾をはじめたのだそうです。

 安政5(1859)年に井伊直弼が大老となり、日米通商条約に調印したことから安政の大獄が起こり、松陰も日本の安全が脅かされることを恐れて藩主や塾生に意見書を送ったことから、塾は閉鎖、松陰は再び投獄され、その翌年、江戸伝馬町獄舎で処刑されました。享年30歳でした。その4年後に、門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、毛利藩の別邸があった現在の世田谷の地に改葬されたそうです。学問の神を祭った神社として、全国各地から参拝者が訪れます。

 中高部の生徒であった頃は、「行学」の時間にクラスごとで松陰神社に恩師・同窓の墓に参り、周りの草むしりをしたり、落ち葉を集めたりしました。都会の中にありながら、静かな森に囲まれた境内に届く、鳥のさえずりやそよ風に揺られる木々の葉音を懐かしく思い出します。境内は、春、夏、秋、冬それぞれに景色を変えます。冬も近くなり、美しい紅葉の季節が終わろうとする頃、突然降り出した雪をかぶった石燈籠が一列に並ぶ光景はとても素敵でしたよ。

 大学のキャンパスからウォーキングのつもりで歩いても、30~40分の場所にあります。皆さんも是非、お尋ね下さい。