恩師同窓の墓 [2016年11月04日(金)]

 毎年11月には世田谷区若林にある松陰神社で、恩師同窓の合祀慰霊祭が行われます。
 まだ上高田に校舎があった昭和15(1940)年、創立20周年の記念事業として、学父人見圓吉先生は「恩師の墓」を、さらに昭和18(1944)年には「同窓の墓」を、亡き恩師、校友と学園が将来永久に精神的に結ばれていることの証として、校舎近くの清原寺に建立されました。
 
(清原寺にあった恩師同窓の墓)
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 その後、校舎が上高田から世田谷のこの地に移り、昭和36(1961)年に「恩師の墓」と「同窓の墓」が世田谷キャンパスの近くにある、学問の神と崇められる吉田松陰が祀られている松陰神社の境内の霊園に改葬されたのです。

(現在の恩師同窓の墓)
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 松陰神社は、東急世田谷線の松陰神社前駅を降りて、松陰神社通りの商店街を北に歩き、約3分位の所にあります。境内には吉田松陰の墓所をはじめ、松陰門下の伊藤博文、山縣有朋等によって奉納された32基の石燈籠も並んでいます。また、山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模した建物を見学することもできます。
 
(松陰神社)
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 松陰は天保元(1839)年、長州藩(現在の山口県)萩で毛利藩士であった杉家に生まれました。11才で藩主の毛利慶親公に山鹿流兵学の『武教全書』を講義した程の勉強家でした。その学問の幅は広く、西洋の文明や兵学についても深い知識を持ち、下田沖に停泊中であったペリーの軍艦に乗船してアメリカに連れて行ってもらうおうと懇願したこともありました。嘉永6(1854)年のことです。

 この計画が失敗に終わり、江戸、そして萩で投獄されましたが、萩にいた1年2か月間に約600冊の本を読破し、同じく投獄されていた人々に『論語』などを教える傍ら、海外の強国から日本をどう守るかを研究しました。安政2(1856)年に松陰は許されて杉家に戻り、そこに孟子の教えを学びたいという若者が多く集まることとなり、叔父の玉木文之助が以前に開いた松下村塾という名を付けた塾をはじめたのだそうです。

 安政5(1859)年に井伊直弼が大老となり、日米通商条約に調印したことから安政の大獄が起こり、松陰も日本の安全が脅かされることを恐れて藩主や塾生に意見書を送ったことから、塾は閉鎖、松陰は再び投獄され、その翌年、江戸伝馬町獄舎で処刑されました。享年30歳でした。その4年後に、門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、毛利藩の別邸があった現在の世田谷の地に改葬されたそうです。学問の神を祭った神社として、全国各地から参拝者が訪れます。

 中高部の生徒であった頃は、「行学」の時間にクラスごとで松陰神社に恩師・同窓の墓に参り、周りの草むしりをしたり、落ち葉を集めたりしました。都会の中にありながら、静かな森に囲まれた境内に届く、鳥のさえずりやそよ風に揺られる木々の葉音を懐かしく思い出します。境内は、春、夏、秋、冬それぞれに景色を変えます。冬も近くなり、美しい紅葉の季節が終わろうとする頃、突然降り出した雪をかぶった石燈籠が一列に並ぶ光景はとても素敵でしたよ。

 大学のキャンパスからウォーキングのつもりで歩いても、30~40分の場所にあります。皆さんも是非、お尋ね下さい。