2016年12月

それでも山に登り続けた田部井さん [2016年12月22日(木)]

 田部井淳子さんは、英米文学科(今の英語コミュニケーション学科)を1962(昭和37)年に卒業された本学の同窓生です。病気でご療養中のところ、10月20日にご逝去されました。本当に残念でたまりません。

 1939(昭和14)年、福島県田村郡三春町にお生まれになり、大学卒業後、社会人の山岳会に入会、谷川岳や日本アルプスなどの冬山や岩登りに次々と挑戦されました。そして、1975(昭和50)年には、世界最高峰のエベレストに女性として世界初の登頂に成功されたのです。キャンプで雪崩に巻き込まれて負傷した時、隊長は「下山」を命じたのにも拘わらず、「私は登り続ける」という固い意志で、どうしても登頂を譲らず、歩みを止めなかったそうです。35歳の時でした。エベレスト登頂で、男社会だった登山界をも変えた、世界を変えた方でした。

 エベレスト登頂成功で、一躍世界中にその名を知られることとなり、1988(平成10)年には、第1号の福島県民栄誉賞を受賞。環境問題にも取り組み、エベレスト初登頂者のエドモンド・ヒラリー卿の呼びかけに応えて、1990(平成2)年には山岳環境保護団体の日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(Himalayan Adventure Trust of Japan=HAT)を創設して代表に就任。国内外で清掃登山や植林などの活動を続けられました。

 さらにその後も、キリマンジャロ、アコンカグア、デナリ(マッキンリー)、ビンソンマシフ、カルステンツ・ピラミッドの登頂に成功し、1992(平成4)年、欧州の最高峰エルブルース(5,642メートル)に登り、女性初の7大陸最高峰制覇を達成されたのです。その後も世界各国の最高峰登頂を目標に、毎年のように海外遠征に出かけられました。学内のカフェテリア・ソフィアの壁には、田部井さんから寄贈していただいた、登頂記念の写真が並んでいます。

 1995(平成7)年には、内閣総理大臣賞を受賞。積極的にそして前向きに楽しんで生きていくこと、周りに感謝することをいつも大切にされていました。2002(平成14)年から2013(平成25)年の間は、本学園の理事もお務め下さいましたし、その後も評議員を引き続きお務め下さいました。2012(平成24)年からは毎年夏に、震災復興を担う若者に自信と勇気を持ってもらいたいと、東日本大震災の被災地の高校生を連れて、富士山に登られ、理事会でも、「昨日山からもどったばかりです」などと、楽しそうにお話をしてくださいました。5回目となった今年の7月にも、高校生をつれて富士山登山に挑まれ、「とても厳しい状況にいる高校生たちに、一歩一歩進めば、いつかは頂点に着くと実感してもらいたい」とことばを添えた葉書をくださいました。

 こうして田部井さんは、がん発病後も登山を続けられ、「体に負荷をかけないほうがいい」と周りからアドバイスをされても、山登りをしているときのほうが元気でいられるし、ベッドで寝ていてもちっとも幸せじゃない、と語られ、肉体的にも精神的にも何にも負けない強い信念をお持ちの方でした。

 12月18日、田部井さんとともに活動し、また、支えていた方々が世話人となって、本学で「田部井淳子さんを送る会」が行われました。在りし日の田部井さんを偲ぶたくさんの方々が参会。世界で活躍された私たちの素晴らしい先輩に、平成18年度に続き来年度の女性教養講座の講師として、2回目となる後輩たちへのご講演をお願いすることに決定していました。お話をお聞きすることが出来ず、本当に残念です。
 
(本学で開催された「田部井淳子さんを送る会」)
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(送る会で配布された資料)
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 田部井さんを偲びながら、果たして自分には田部井さんのように人生で何があっても続けることがあるのだろうかと自問しています。

新校舎が姿を見せました [2016年12月16日(金)]

 昨年の11月から、校門を入ってすぐ左、創立者記念講堂の手前の歩道が通れなくなっていました。もともと、あまり幅の広くない歩道と車道でしたから、そんなに不便さは感じていませんでしたが、壁の向こう側には一体何ができるのだろうかと思っていた方も多いと思います。
 
 いよいよ、その姿を見せました。昭和女子大学の新校舎です。体育館のフロアもある3階建てのビルで、健康デザイン学科のほか、来年度新設の食安全マネジメント学科も入ります。食安全マネジメント学科では、食品の安全性や栄養学などに加えて、フードビジネスを学び、卒業後は、食品系の企業、外食産業への就職や、レストラン経営などを目指す人が多い学科になることでしょう。

(工事中の校舎とトルストイ像)
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 本学の歴史を振り返ると、1920(大正9)年に歴史の第一歩を踏み出した日本女子高等学院の課程を1946(昭和21)年に引き継いだ日本女子専門学校が、1949(昭和24)年に新学制によって昭和女子大学と改め学芸学部(国文学科、英文学科、被服学科、家政理学科)を設置した時が家政系学科の始まりといえるでしょう。1953(昭和28)年には、学芸学部が文家政学部(日本文学科、英米文学科、被服学科、生活科学科)に改められ、さらに1962(昭和37)年には、生活美学科が設置されています。1978(昭和53)年には文家政学部が、文学部と家政学部に分離。1994(平成6)年に家政学部が生活科学科となりました。2009(平成21)年には、生活科学部に健康デザイン学科を設置。生活科学科が管理栄養学科となりました。そして、2017(平成29)年には食安全マネジメント学科が生活科学部に新設されることとなったのです。本学にまた新たな学びの拠点ができます。
 
 校門を入ると左手に、白壁のシンプルで美しい新校舎と記念講堂が並ぶと、きっと壮観に違いありませんね。キャンパスもぐっと広くなります。新しい建物で学ぶ新しい学科。食安全マネジメント学科に将来の夢を抱いて、たくさんの受験生が集まり、新入生の皆さんが大いに成長されることを期待しているところです。
 
(新校舎と並ぶ人見記念講堂)
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エル・カミーノ・ベル [2016年12月02日(金)]

(本学にあるエル・カミーノ・ベルベル部分の拡大写真)
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 この鐘は、キャンパスのどこにあるかご存知ですか?
 
 アメリカ合衆国カリフォルニア州を南北に走る国道101号線を、エル・カミーノ・レアル(El Camino Real)、現地の日本人は、『カミーノ街道』と呼んでいます。この名称はスペイン語で、“レアル”は皆さんの中でもファンの多い、スペインのサッカーチーム、“レアル・マドリード”の“レアル”と同じ、「王」の意味です。“カミーノ”は「道」。そして、エル・カミーノ・ベルは、この「(スペイン国)王の道」沿いに建てられた修道院の鐘のことを言います。
 
 まず、アメリカの国道の一部が、なぜスペイン語でエル・カミーノ・レアルと呼ばれているのか、そのあたりの歴史から振り返ってみましょう。1542年、日本では徳川家康が生まれた年に、ポルトガル人がサンディエゴ近辺に漂着したのを皮切りに、その後来航した人々が彼らの守護聖者の名前、サンディエゴをそのあたりの地名として植民地開拓が始まりました。1769年と言えば日本では織田信長全盛の時代ですが、その年から、当時スペインに支配されていたメキシコから聖フランシスコ修道会の修道士たちが次々とサンディエゴの南に入り、道沿いに修道院を建設しながら、北へ北へと進んでいきました。彼らの布教活動は、歴史的には聖書を武器とした侵略に近いものだったとも言われています。一方で修道士たちは、土地の開拓と共にブドウを栽培しワインの生産も始め、現在のカリフォルニアワインの生産にもつながったと考えられています。この道はサンフランシスコの北まで繋がっていて、1906年には21の伝道所が建設され、牧場や畑を持つ修道院も多くありました。この21の伝道所を結ぶルートがエル・カミーノ・レアルです。
 
 1810年には、植民者支配に対する農民反乱として始まったメキシコ独立戦争に勝利し、メキシコが独立しました。しかし、1846年から約2年間のアメリカ、メキシコ戦争ではアメリカが勝利し、この「エル・カミーノ・レアル」を含むカリフォルニアは、アメリカの領地となったのです。
 実は、聖フランシスコ修道会が進出した土地には、サンディエゴ-サンフランシスコ間だけでなくアメリカのあちこちに同名の道があるそうです。また、1900年頃には、この道路はカリフォルニアの砂漠を迂回して行く荒れ果てた道となってしまったという記録があります。1900年初頭は、まだ蒸気自動車が主流であった中、ガソリン自動車が誕生し、フランスでは貴族たちの乗り物として、一方、広大な国土を持つアメリカでは広く大衆が馬車に代わる移動手段をとして、急激に利用者が多くなりました。州の自動車協会では「道路整備の日(Road Building Days)」を設けたほどでした。特に「婦人連合会(General Federation of Women’s Club)」が、歴史的価値のある道路遺産を失くしてしまわないように、また、ガソリン車社会となっても安全な道となるよう、継続的に努力を重ねたとの記録もあります。その後20 世紀に入って この道筋を確認し、道路に沿って伝道所の象徴である鋳物のつり鐘、ミッション・ベルが1マイル毎に450個所建てられたそうです。※この道標の柱は羊飼いの持つ杖を模していて、高さ11フィート(約3.3m)からベルが吊るされています。
 
 さて、キャンパスの中で、そのミッション・ベルのレプリカがあるのは「昭和之泉」です。これは第2代理事長の人見楠郎先生が、サンディエゴ市から譲り受けたものだそうです。
 
(昭和之泉のエル・カミーノ・ベルの写真全体像)
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 同じ釣鐘は、サンディエゴと姉妹都市提携を結んだ横浜市の山下公園にもあります。また、吹奏楽に詳しい方は、アルフレッド・リードの吹奏楽曲「エル・カミーノ・レアル」をご存知のことでしょう。アメリカに住むリードが、国道のエル・カミーノ・レアルからイメージして作曲したのかもしれませんね。楽隊を従えたスペイン国王の豪華絢爛な行列が、「国王の道」を進んで行く様子を思い浮かべながら聴いてみると良いでしょう。
 エル・カミーノ・ベルから、いろいろな話になりました。小さな知識の点(Steve Jobsはdotと呼ぶ)も、繋ぎ合わせていくと次々と広がるものです。私は、サンフランシスコ州立大学大学院の修士を1977年に終えましたが、サンディエゴには、ドライブしたり、ものすごく広い農園を持つ豪邸の留守番のアルバイトをしたりしたことがあります。皆さんは、「昭和之泉」にあるエル・カミーノ・ベルを見て、どんなことに思いを馳せるのでしょう。