建物

AEQUABILITER ET DILIGENTERとFIAT LUX [2017年04月14日(金)]

 図書館のある8号館の正門側入口の左側の外壁にAEQUABILITER ET DILIGENTERと、FIAT LUXという言葉が掲げられています。

(8号館の正門側入口)

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 はじめのAEQUABILITER ET DILIGENTERは、キケロの「兄弟クゥイーントゥス宛の手紙Ⅰ」の中にあるもので、「着実にして勤勉」という意味であることが、本学の図書館のサイトhttps://swu.ac.jp/fac/lib/use/u_facility/u_collectionにあります。イギリスの詩人、ジョン・ミットフォード(1782-1831)の詩句に由来があることも『昭和女子大学90年史』に記述されています。現在の6号館にあった旧図書館の入り口に掲げられていたものをここに移転しました。本学創立者人見圓吉先生が、図書館に相応しい言葉を探すように、当時本学でご指導をいただいていた国語学者の吉田澄夫教授に依頼して、この言葉に巡り合ったようです。

 もう一つのFIAT LUXは、旧約聖書の創世記第1章にある、次のようなことばからの引用で、「光あれ」という意味です。昭和女子大学図書館報の名前にもなっています。

   In principio creavit Deus caelum et terram. 創めに神が天と地を造った。

  Dixitque Deus: “Fiat lux!” Et facta est lux. 神は云った。「光あれ」。すると光ができた。

 宗教的な意味で「光あれ」がどのような意味を持つかは別として、混沌とした闇の世界に光明をもたらす光は、「開講の詞」にある、「陰惨な雲」に覆われた世界に差し込む「一道の光明」であり、「文化の道を歩み出すべく、互いに研き合わなければならない」という意味が込められたことばと解釈できるのではないでしょうか。

 この句は、その昔、今の学園本部館の近くにあった近代文庫の入り口に掲げられていました。

 これら二つのことばは、共にラテン語ですが、全く出典も違い、初めに刻まれていた建物も違いますから、一続きのものでないことだけは誤解の無いように。

 創立者の人見圓吉先生は、晩年になられても、毎晩遅くまで、近代文庫や図書館で研究を続けられていたと伺っています。図書館は静かにものを考え、研究に打ち込める場所だったのですね。現在では、自宅や学外のどこからでも、PCがあれば本学の教職員や学生は、図書館の情報を見ることができます。また、図書館で調べなくても、様々な情報源を活用して情報をとり出すことも簡単に即座にできるようになりました。しかし、そうした知識は、その場だけの単なる情報として終わってしまうことが多く、本をじっくりと考えながら読んで得た知識とは、違うように思いませんか。

キャンパスで迷った人、ありませんか? [2017年02月10日(金)]

 学外の方が参加される講演会などのイベントで、会場の場所がわからなくて困っていらっしゃる光景をキャンパスで目にすることがあります。学内の者でも、いつも使っている建物にある教室はすぐに分かりますが、主に他の学部・学科が使用している建物内にあるホール等で行われるイベントに行きたい時には、少し余裕を持って会場に行かないと途中で迷って遅刻しそうになることもありますね。
 
 特に大学2号館とその東棟、80年館とその西棟は、しっかりと確認をしておかないと、途中で迷ってしまいそうです。大学2号館とその東棟は繋がっていませんが、80年館と西棟は繋がっています。「こんなところに?」と思う教室をご紹介したいと思います。
 
 先ず、大学2号館の東棟寄りの階段、つまり、国際交流センターに向かって右手の建物に沿った間の階段を上がって左手に扉があります。ここから入ると、大学2号館2階の2L02演習室の後ろに直に繋がっています。ですから、ここは、むやみに開けないようにしましょう。また、例えば現代教育研究所がある東棟の2階以上に行きたい場合、東棟の玄関を入って左手に2つ階段が並んでいますが、これはどちらを登っても5階まで同じように到着しますので安心して下さい。
 
(大学2号東棟の階段を上がったところ)
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 さて、80年館です。ここは、地下1、2階が図書館の書庫、1階が学生ホール、2階が図書館の事務室、3、4階が図書館開架閲覧室、6階にオーロラホール(6L01)とコンピューター教室が並んでいるので、かなり利用者が多い建物です。図書館やオーロラホールに行くには、主に、正門から光葉博物館に向かって右の東側エレベーターを利用する方が多いのですが図書館以外に行くには、学生ホールの先の西側エレベーターも利用できます。この西側エレベーターを利用すれば、細い廊下をちょっと歩くだけで、どの階でも80年館西棟に繋がっています。もちろん西棟専用のエレベーターもありますから、80年館は3基のエレベーターが利用できることになります。東側のエレベーターはいつも混むので、ちょっと遠回りして他の2基を利用すると便利かもしれません。西棟には、6階にコスモスホール(6L41)があります。ここは大きな階段教室で、様々なイベントの会場になりますが、実は両方の入口が前方、つまり講演者,講義者が立つ側にあるので、途中の出入りがしにくいので注意しましょう。同様に5階の5L44もコスモスホールより少し小さい階段教室です。この教室への入口は、「えー、入っていいのかしら?」と思わせるようなところにありますよ。

(80年館西棟5L44教室入口)
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 ということで、学生数が増え、教室も増えましたが、建物の場所や名称が分かりにくくなってしまいました。実は来年度に向けて、計画をしていることがありますので、楽しみにしていてください。

新校舎が姿を見せました [2016年12月16日(金)]

 昨年の11月から、校門を入ってすぐ左、創立者記念講堂の手前の歩道が通れなくなっていました。もともと、あまり幅の広くない歩道と車道でしたから、そんなに不便さは感じていませんでしたが、壁の向こう側には一体何ができるのだろうかと思っていた方も多いと思います。
 
 いよいよ、その姿を見せました。昭和女子大学の新校舎です。体育館のフロアもある3階建てのビルで、健康デザイン学科のほか、来年度新設の食安全マネジメント学科も入ります。食安全マネジメント学科では、食品の安全性や栄養学などに加えて、フードビジネスを学び、卒業後は、食品系の企業、外食産業への就職や、レストラン経営などを目指す人が多い学科になることでしょう。

(工事中の校舎とトルストイ像)
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 本学の歴史を振り返ると、1920(大正9)年に歴史の第一歩を踏み出した日本女子高等学院の課程を1946(昭和21)年に引き継いだ日本女子専門学校が、1949(昭和24)年に新学制によって昭和女子大学と改め学芸学部(国文学科、英文学科、被服学科、家政理学科)を設置した時が家政系学科の始まりといえるでしょう。1953(昭和28)年には、学芸学部が文家政学部(日本文学科、英米文学科、被服学科、生活科学科)に改められ、さらに1962(昭和37)年には、生活美学科が設置されています。1978(昭和53)年には文家政学部が、文学部と家政学部に分離。1994(平成6)年に家政学部が生活科学科となりました。2009(平成21)年には、生活科学部に健康デザイン学科を設置。生活科学科が管理栄養学科となりました。そして、2017(平成29)年には食安全マネジメント学科が生活科学部に新設されることとなったのです。本学にまた新たな学びの拠点ができます。
 
 校門を入ると左手に、白壁のシンプルで美しい新校舎と記念講堂が並ぶと、きっと壮観に違いありませんね。キャンパスもぐっと広くなります。新しい建物で学ぶ新しい学科。食安全マネジメント学科に将来の夢を抱いて、たくさんの受験生が集まり、新入生の皆さんが大いに成長されることを期待しているところです。
 
(新校舎と並ぶ人見記念講堂)
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エル・カミーノ・ベル [2016年12月02日(金)]

(本学にあるエル・カミーノ・ベルベル部分の拡大写真)
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 この鐘は、キャンパスのどこにあるかご存知ですか?
 
 アメリカ合衆国カリフォルニア州を南北に走る国道101号線を、エル・カミーノ・レアル(El Camino Real)、現地の日本人は、『カミーノ街道』と呼んでいます。この名称はスペイン語で、“レアル”は皆さんの中でもファンの多い、スペインのサッカーチーム、“レアル・マドリード”の“レアル”と同じ、「王」の意味です。“カミーノ”は「道」。そして、エル・カミーノ・ベルは、この「(スペイン国)王の道」沿いに建てられた修道院の鐘のことを言います。
 
 まず、アメリカの国道の一部が、なぜスペイン語でエル・カミーノ・レアルと呼ばれているのか、そのあたりの歴史から振り返ってみましょう。1542年、日本では徳川家康が生まれた年に、ポルトガル人がサンディエゴ近辺に漂着したのを皮切りに、その後来航した人々が彼らの守護聖者の名前、サンディエゴをそのあたりの地名として植民地開拓が始まりました。1769年と言えば日本では織田信長全盛の時代ですが、その年から、当時スペインに支配されていたメキシコから聖フランシスコ修道会の修道士たちが次々とサンディエゴの南に入り、道沿いに修道院を建設しながら、北へ北へと進んでいきました。彼らの布教活動は、歴史的には聖書を武器とした侵略に近いものだったとも言われています。一方で修道士たちは、土地の開拓と共にブドウを栽培しワインの生産も始め、現在のカリフォルニアワインの生産にもつながったと考えられています。この道はサンフランシスコの北まで繋がっていて、1906年には21の伝道所が建設され、牧場や畑を持つ修道院も多くありました。この21の伝道所を結ぶルートがエル・カミーノ・レアルです。
 
 1810年には、植民者支配に対する農民反乱として始まったメキシコ独立戦争に勝利し、メキシコが独立しました。しかし、1846年から約2年間のアメリカ、メキシコ戦争ではアメリカが勝利し、この「エル・カミーノ・レアル」を含むカリフォルニアは、アメリカの領地となったのです。
 実は、聖フランシスコ修道会が進出した土地には、サンディエゴ-サンフランシスコ間だけでなくアメリカのあちこちに同名の道があるそうです。また、1900年頃には、この道路はカリフォルニアの砂漠を迂回して行く荒れ果てた道となってしまったという記録があります。1900年初頭は、まだ蒸気自動車が主流であった中、ガソリン自動車が誕生し、フランスでは貴族たちの乗り物として、一方、広大な国土を持つアメリカでは広く大衆が馬車に代わる移動手段をとして、急激に利用者が多くなりました。州の自動車協会では「道路整備の日(Road Building Days)」を設けたほどでした。特に「婦人連合会(General Federation of Women’s Club)」が、歴史的価値のある道路遺産を失くしてしまわないように、また、ガソリン車社会となっても安全な道となるよう、継続的に努力を重ねたとの記録もあります。その後20 世紀に入って この道筋を確認し、道路に沿って伝道所の象徴である鋳物のつり鐘、ミッション・ベルが1マイル毎に450個所建てられたそうです。※この道標の柱は羊飼いの持つ杖を模していて、高さ11フィート(約3.3m)からベルが吊るされています。
 
 さて、キャンパスの中で、そのミッション・ベルのレプリカがあるのは「昭和之泉」です。これは第2代理事長の人見楠郎先生が、サンディエゴ市から譲り受けたものだそうです。
 
(昭和之泉のエル・カミーノ・ベルの写真全体像)
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 同じ釣鐘は、サンディエゴと姉妹都市提携を結んだ横浜市の山下公園にもあります。また、吹奏楽に詳しい方は、アルフレッド・リードの吹奏楽曲「エル・カミーノ・レアル」をご存知のことでしょう。アメリカに住むリードが、国道のエル・カミーノ・レアルからイメージして作曲したのかもしれませんね。楽隊を従えたスペイン国王の豪華絢爛な行列が、「国王の道」を進んで行く様子を思い浮かべながら聴いてみると良いでしょう。
 エル・カミーノ・ベルから、いろいろな話になりました。小さな知識の点(Steve Jobsはdotと呼ぶ)も、繋ぎ合わせていくと次々と広がるものです。私は、サンフランシスコ州立大学大学院の修士を1977年に終えましたが、サンディエゴには、ドライブしたり、ものすごく広い農園を持つ豪邸の留守番のアルバイトをしたりしたことがあります。皆さんは、「昭和之泉」にあるエル・カミーノ・ベルを見て、どんなことに思いを馳せるのでしょう。

野に出でよ [2016年11月25日(金)]

 私たちの年代の卒業生にとっては、学寮と言えば茅ケ崎や大磯の寮を思い出します。望秀学寮はもちろんのこと、東明学林もまだ出来ていなかったからです。神奈川県大井町にある本学の研修施設「東明学林」は1977(昭和52)年の3月に竣工式を迎えました。

(東明学林から望む富士山)
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 東明学林の「東明」とはもちろん、創立者人見圓吉先生のことで、先生の雅号です。東明学林は酒匂川を眼下に見下ろす12万平方メートルに近い自然の山の傾斜地をうまく利用して建てられた白亜の寮舎です。
 
 学林の入口近くには、創立者人見圓吉先生の詩碑があります。それは、富士山が一番美しく見える所に置かれていて、「ふるさとの碑」と名付けられています。先生の生まれ故郷、岡山産の赤花崗岩には、私の大好きな詩が刻まれています。
 
(ふるさとの碑)
ふるさとの碑

  
        人見東明

  
野に出でよ
あかときの光
草の葉 露にぬれ

地を踏め
やわらかに また
冷やゝかな
地をふめよ 足うらで

風さわやかに
木の葉を揺り
鳥の胸毛をふく

空を見よ
うつくしき空に
雲はたゞよう

野に出でよ 愛の野へ
野は自然の胸
つねに静かにして
安らかなり

 
 もうすぐ夜が明けそうな気配をわずかに見せつつも、まだ薄暗い「あかとき」。露のおりた草の中に足を踏み入れると、ひんやりとした大地を足裏に感じる。そんな感覚って、いつ体験したかはすぐに思い出せなくても、なんとなく分かりますよね。しっかりと足裏で大地を踏みしめると、いつも変わらずに自分を支え抱いていてくれる大自然の力が体に沁み込んで来るように思いませんか。
 
 東明先生たちと早稲田詩社を結成した野口雨情の田園詩集『枯草』の中に、「踏青(とうせい)」と題した詩があります。次はその1節です。
 

君よ青きを踏みたまへ
いざ野に出でて踏みたまへ
踏めば緑の若草に
ああ春の香は深からむ

 
 踏青とは、春の青草を踏んで遊ぶことや春に行われる郊外の散歩のことで、唐詩ではよく用いられることばだそうです。東明先生の詩も春に詠まれたのでしょうか。
 
 この歌碑の横には「学父の碑」があります。そこには東明学林開設当初から、創立者の分骨が祀られています。そして1995(平成7)年の3月には、これまで別々の場所に納められていた学母人見緑先生の分骨も合祀されました。毎年5月にはどなたでも東明学林内のツツジの花を楽しんでいただけるイベントもあります。是非、お訪ねください。そして、東明先生の歌碑と校祖夫妻の碑にお参りし、そこから正面に見える富士山を堪能してください。
 
(学父の碑)
学父の碑

「学父の岩」と「学母の岩」 [2016年10月28日(金)]

 「校訓の巌」と呼ばれる創立者記念講堂の横にある青色の油石と同時期に運びこまれたのが、大学5号館の入り口右手に置かれている、「学父の岩」です。
 
(学父の岩)
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 そしてその右隣には、30トンの緑色の石があります。これは、学母人見緑先生の生まれ故郷、四国愛媛県産で、伊豫青石とも呼ばれている石です。

(学母の岩)
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 名前の通り晴れた日には緑色に、そして、雨に濡れると青色に輝き、模様も複雑に変化するように見えます。伊豫青石の産地には昔から有名なお寺も多く、きっと弘法大師や空海も、2億年近く前からさまざまな自然の力を受けて形成されたこの石の岩山を歩いて四国を巡ったのではないでしょうか。紀伊国屋門左衛門の屋敷を岩崎弥太郎が買い取って今は都立「清澄庭園」として開放されている回遊式林泉庭園には、全国から集めた伊豫青石等の名石が数多く配置されているそうで、この伊豫の石は数々の名庭にも景石として使われています。
 
 「学父の岩」と「学母の岩」のそばには、春を告げる梅の花も咲きます。また、二つの岩の前には、サツキが二株植えられていますが、これらはもともと校祖が鉢植えを購入して植えられたものだそうで、35年以上たった今ではしっかりと根をおろし、5月の声を聞くと、可愛いらしい花を咲かせます。サツキは「皐月躑躅(サツキツツジ)」とも呼ばれ、ツツジ科。旧暦の5月(皐月)に咲くことからその名がつき、俳句では「夏」の季語です。ツツジよりやや遅く咲き、6月の終わり頃まで、紅色、ピンク、絞りなどの少し小さめの花をつけます。
 
 学園のいろいろな場所に石や岩が配置されています。7人の妖精を探すのも楽しいことですが、さまざまな謂れのある石や岩を探して歩くのも楽しいのではないでしょうか。
 
(「学父の岩」と「学母の岩」の傍らに咲く梅)
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校訓の巌 [2016年10月21日(金)]

 創立者人見記念講堂の入り口右手に、大きな岩(巌)が置かれているのをご存じですか。キャンパスには何か所かに大きな石が置かれていますが、その中でこの石はもっとも巨大です。45トンもあります。45000キロですから、45キロの体重の人が1000人集まった重さですね。
 
(講堂前の校訓の巌)
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 これは学園創立60周年にあたる昭和55(1980)年に北海道日高山中から運ばれた青色の石です。北海道を代表する名石の一つで、神居古潭石(かむいこたんいし)が正式な呼び名のようです。庭石として全国的に名高いのは、大変に硬く、「油石」とも呼ばれ磨かなくても滑らかな光沢に富んでいる石だそうです。北海道、日高の変成岩層が石狩川の急流と交差することでこのような特別な石が形成されるとか。神居古潭石自体の色はさまざまのようですが、本学にあるのはスクール・カラーの青色で、特に雨に濡れた時のみずみずしい色は、素晴らしいものです。
 
 創立者人見圓吉先生が、記念講堂の前にいつも笑顔で、物静かにどっしりと座っていてくださる、そんな風情のある青い石。ここを通る時には、校祖の学園への祈りを思い出したいものです。

望秀海浜学寮 [2016年07月22日(金)]

 房総半島の南端に近い館山市に望秀海浜学寮が開設されたのは、1986年の3月、ちょうど本学の女性文化研究所開設の1か月少し前のことでした。「房州」でなくて、「望秀」と書くのは、「秀(たか)き理想を望みつつ励む」の意味が込められているからです。

 「秀」の文字は、「禾(穀物の穂)」と「乃(なよなよする様)」の文字を組み合わせて作られたという説があり、その説によれば、穀物の若い芽が伸びる様子を意味していたそうで、そこから「すらりと高く穂や花になる芽が出る」、「すらりとぬきんでた穂」「すらりと高く出る」「ほかの人よりすぐれる」ということを表し、「秀でる」とか「優れる」という意味になったということです。ですから「秀き」と書いて「たかき」と読むのは、少々苦しいかもしれませんが、本学で学ぶ者へのに「秀でた理想を望みつつ(目指して)、学生生活に励んで欲しい」という呼びかけの気持ちを表した名称なのです。
 
(望秀海浜学寮の建物)
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(望秀海浜学寮から見る那古の海)
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 本学を卒業してすぐに昭和女子大学附属中高部でしばらく教鞭をとりましたが、その後アメリカに留学、修士が終わって中高部に戻ったのが1977年でした。その年に東明学林が出来ましたから、私が大学生の頃は、茅ケ崎海岸にあった湘南学寮や大磯にあった鴫沢学寮で学寮研修を経験しました。多分、1週間~10日間の宿泊研修で、はっきりと覚えていないのですが、夕食も交替で学生が調理したように記憶しています。鴫沢寮での学寮が終わると、帰りには西行饅頭をお土産に家に持ち帰るのを両親も楽しみにしていましたし、湘南学寮では、海岸散歩と称して茅ケ崎の高級住宅地にある有名な俳優や歌手の家を皆で探すのも楽しみでした。
 
 さて、話を基に戻すと、望秀海浜学寮ができる以前から、中高部では千葉県館山市那古の数件の宿に分泊して研修をしました。研修中に必ず船形の灯台をめざして鏡ケ浦の海を泳ぐ遠泳と、那古観音での盆踊り大会がありました。望秀海浜学寮が建つあたりは、戦国の武将・里見氏を題材に書かれた滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」ゆかりの地で、盆踊りで観音様の境内に集まると、必ず、南総里見八犬伝の話を聞いたものでした。そして、那古観音から見下ろす船形、館山の町の夜景の美しさは今でも心に焼き付いています。もう一つ必ず海浜学寮で行われた行事が、後に昭和の寮が建つという広大な土地の草むしりでした。私は中学校から昭和に入り、中1から高2まで毎年、そして、高3でも中央委員として下級生のお世話をするために夏季寮に参加したので、6年間、麦わら帽子をかぶり太陽がカンカンと照る中で草むしりをしました。でも今では、友達と一緒に作業をしたことが楽しい思い出となっています。学生の皆さん、私たち先輩が汗を流しながら草むしりを何年も続けてできた望秀海浜学寮です。是非、東京のキャンパスではできない活動を取り入れて、有意義に過ごしてください。
 
(望秀海浜学寮に咲くオオマツヨイグサ)
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 そういえば、夏季寮の楽しみを、もう一つ思い出しました。オオマツヨイグサの花が夕方にポッという音を立てて開くのを聞くことです。海岸からの帰寮の順番が最後になり、日が落ちかけてから旅館まで歩いて帰る途中で、小さくポッという音を立てて開く黄色い花を見つけて感動しました。学園のキャンパスのところどころにも、オオマツヨイグザが咲いています。夜に花が開くと次の朝には萎んでしまうので、自宅で咲かない限り、なかなか音を聞くのは難しいかもしれませんね。

昭和学園記念室 [2016年06月24日(金)]

 皆さんは、昭和学園記念室がどこにあるかご存知ですか。見学されたことはありますか。
 
 創立者人見記念講堂の一階の入り口に向かって右側、講堂事務室に向かう階段を上がり、左手のガラスの扉を開け、すぐ右手に歩いて、初めの右手の扉の部屋が昭和学園記念室です。ちょっとややこしいですね。部屋が開いていない時は、隣の光葉同窓会事務室に声をかけていただくと、鍵を開けてくださることになっています。
 
(昭和学園記念室)
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 ここは応接室となっていて、創立者人見圓吉先生、第二代理事長人見楠郎先生の思い出の品や本学の歴史に関する数々の品が展示されています。日本女子高等学院の創立、菊池寛賞受賞などにかかわる貴重な資料も含まれています。
 
(菊池寛賞)
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 在学中の学生の皆さんは創立者人見圓吉先生のことは、入学の時に渡される『学生便覧』にある「創立者人見圓吉と緑夫人」の写真だけでしか、多分、知りませんよね。ここにある短冊に手書きされた「草の息 木の息 森の息 ききて こころ静かに 生きて 行かまし」の歌は東明学林の歌碑にもなっています。
 
 圓吉先生は、どんな青年だったのでしょう。先生のまわりをどんな人たちが囲んでいたのでしょう。私が圓吉先生のお授業を受けたのは先生の晩年の1年間だけでした。特製の袋に入れた牛乳瓶をいつもお持ちになり、大きな講義室で授業をされました。牛乳は健康に良いので、いつもそうなさっていると伺いました。昭和学園記念室は大きな部屋ではありませんが、圓吉先生が愛用されていたベレー帽やマント、それに拡大鏡、老眼鏡、硯箱などが展示されていて、「女性こそが世界を変えることができる」と信じて、文筆家としての筆を折り、女子教育にその後の生涯をささげられた先生のお姿を彷彿とさせます。
 
 大学時代に英米文学科で学んでいた私たちは、アーノルド・トインビーの書いた『世界と西欧』の一部を講読の教材として読んだ記憶があります。その中でトインビーは、歴史的に滅びた民族の共通点は、理想を失う、お金に価値を求めて心の価値を失う、自国の歴史を忘れることにあったと書いていたと思います。国でも、大学でも、家庭でも、その始まりから現在まで辿ってきた道を大切にする気持ちを持ち続けたいですね。
 
 歴史の始まりを知ることはとてもミステリアスで楽しいことです。未知の発見がきっとあります。昭和女子大学の始まりとその歴史からも、私たちの想像を超えるような何かが発見できるかも知れません。もうすぐ創立100周年を迎える本学の歴史の始まりとその歩みを、在学生、卒業生、教職員の皆様も是非、見学していただけると嬉しいです。

昭和のタイムカプセル [2016年06月17日(金)]

 創立者人見記念講堂の前に建っているトルストイ像は、パンフレットや式典の次第などの学園の印刷物の表紙でもおなじみです。本学で学んでいる人なら誰でも、トルストイ像のことを知っていると思っていたのですが、先日、像の前を通りかかった学生達が、「これ、誰?」「創立者記念講堂だから、創立者じゃないの?」と話しているのを聞いて、びっくりしました。創立者の人見圓吉先生は、がっちりしていてとても大柄な先生でいらしたことには間違えはありませんが・・・。今日は、そのトルストイ像のことについて書いておきたいと思います。
 
(トルストイ像)
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 記念講堂前のトルストイ像は、ブロンズ製で2.5メートル、380キロもあります。今から120年近く前、トルストイが同じロシアの作家ゴーリキーと一緒に写した写真を基に作られ、中部ロシアのニコーリスコエの町の博物館の前に建っているものを模したものです。
 
 さて、昭和のトルストイ像には秘密があります。それは、実際に重量を測ってみると、なんと480キロにもなるということです。なぜだかわかりますか。
 
 像内に80周年を迎えた当時までの昭和学園の資料がさまざま入っているのです。開講の詞、人見東明全集、それまでの全卒業生の名簿、学生便覧、学報の特集号、それに、当時の昭和学園の施設の写真や学園が発行した様々なパンフレット等です。
 
 小学校や中学校の卒業記念にタイムカプセルを埋めたことがある人もいるでしょう。でも、いざ掘ることになり、探し始めると場所がどこかわからなくなってしまったとか、他のものがその上に建って掘り進めないとか、掘り当てても水が入っていて何が入っていたのかわからない、など、失敗談もたくさん聞いています。でもトルストイ像のタイムカプセルは、心配ありませんね。
 
 さて、像内に入っているものを開封するのは、いつのことになるのでしょう。1970年に行われた日本万国博覧会の次の年、大阪城本丸にタイムカプセルを埋めたことは大きなニュースとして扱われました。世界各国から2000点以上の文化的価値を持つ品物を集め、内径1メートルの同じカプセルを2個埋め、上の1個は各世紀の初めに開き、そのまま埋めておいても持ち続けるかを調べて、良ければ再度密封して埋めるのだそうです。2000年に第1回目のチェックを行った時には、内容物に変わりは無く、そのまま封をしてまた埋めたそうです。下の1個は埋めた時から5000年後にあたる6970年に開かれる予定とのこと。そう聞くと、昭和のタイムカプセルを創立100周年に開封するのは、早すぎますよね。