歴史

祝歌 [2017年05月12日(金)]

 昭和女子大学は今年創立97周年を迎えました。3年後には100周年を迎えます。
 小学校、中学校、高等学校、大学と、普通はあまり自分の卒業年度を覚えていないものですが、本学では、よく覚えている卒業生が多いようです。その理由は、祝歌があるからではないでしょうか。毎年、該当の年が創立何年にあたるかを、少なくとも、入学式、創立記念日、卒業式には祝歌の歌詞に入れて歌うからです。数字の読み方には、少し戸惑うこともあるのですが、今年は、「ああ、きゅうじゅうしちねん」と歌っています。

 昭和15年10月26日に、本学の「創立20周年記念祭」が神宮外苑の日本青年会館で行われたと記録されています。この折に、「創立20周年祝賀の歌」として発表されたのが、現在の「祝歌」です。「校歌」は、日本の国でたとえれば、「国歌」にあたるもので、正式な式典では必ず歌いますが、その他の会合や集まりでは、「第二校歌」とも呼ばれる「祝歌」を歌っています。

(昭和15年10月26日に行われた「創立20周年記念祭」)
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 その作詞は、創立者人見圓吉先生、そして作曲は権藤圓立(えんりゅう)先生です。
 権藤圓立は、宮崎県の延岡市の真宗大谷派の光勝寺に生まれ、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)で声楽を学びました。宮崎県では初の声楽家と言われてます。大正11年、野口雨情と出会い、雨情の媒酌で結婚。夫人である権藤はなよは、童謡「たなばたさま」の作詞者です。大正14年に東京放送局(現NHK)が開局された折には、記念番組で歌曲や童謡を歌い、レコードもたくさん出されています。一方、同時代に、人見圓吉は人見東明として文学界で活躍され、野口雨情とも親交が深く、たとえば、大正9年には「雨情の東京復帰歓迎会」を小川未明、西条八十、窪田空穂などと共に開催したりしていました。昭和女子大学の前身、日本女子高等学院が生まれたのも大正9年。定かではありませんが、権藤圓立とは、少なくとも顔見知りであったのではないでしょうか。

 権藤圓立の自筆の「祝歌」の楽譜と歌詞が書かれた曲譜の写真が、『学園の半世紀』に掲載されています。

(権藤圓立の自筆の「祝歌」曲譜 『学園の半世紀』より)
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 墨で書かれた五線譜はとても珍しいですね。そして、圓立の雅号は「里芋」と書かれています。「リウ」と読むようです。また、昭和38年に行われた光葉会総会では権藤圓立先生の指揮で祝歌を歌いました。

(昭和38年 光葉会総会にて祝歌の指揮をとる権藤圓立先生 『学園の半世紀』より)
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 権藤圓立は、小・中・高校や大学の校歌、応援歌などの作曲も手掛けられ、本学と同じ世田谷にある駒沢大学の校歌も作曲されています。高校野球のTV中継では、出場校の校歌の紹介がありますが、その中に権藤圓立作曲という紹介見ることもあります。昭和の「祝歌」、100年はどのように歌ったらよいのかな、ちょっと心配ですが、これからも力強く歌い続けていきましょう。

校歌 [2017年04月28日(金)]

 本学は、大正9 年9月10日に「私塾」日本女子高等学院が小石川幼稚園の間借り教室で始まり、大正11年3月には、東中野の中野幼稚園の一隅を借りて仮校舎として、日本女子高等学院設立認可申請を東京府に提出しました。そして、その4月に新生「日本女子高等学院」が誕生したと記録にあります。しかし、大正12年9月には関東大震災。何とか倒壊は逃れ、11日に始業式。大正14年3月には、第1回卒業生、国文科4名、英文科4名、附属女学部7名の15名を送り出しました。この卒業式には、先輩が誰もいなかったのはもとより、校歌もありませんでした。

 第1回卒業生の悲願であった本学の校舎がやっとできたのは、大正15年5月のこと。初めて独立した校舎を持つこととなり、同年6月5日に東中野の仮校舎から上高田の新校舎に移転したのです。この新校舎の落成式に校歌が制定されました。昭和の目指す教育の理想が、謳われています。初代理事長、人見圓吉先生が作詞されました。

(大正15年の上高田校舎)

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 校歌の第1節「朝風薫る武蔵野の、緑が丘に春和み、学びの庭の八重桜、色香も清く咲き充てり」では、本居宣長が「敷島の大和心を人とはば、朝日に匂ふ山桜」、つまり、「日本人のこころとは何かと人が尋ねたら、朝日に照り映える自然に咲く山桜のように、純粋無垢な気高い心情である」と謳ったように、「春の武蔵野の丘に緑が映え、気高い日本人の心を表すような八重桜が美しく咲いている」いる。昭和は、そのような清々しく美しい自然に勝るとも劣らない、「清き気品」「篤き至誠」「高き識見」を兼ね備えた女性たちが学ぶ学園でありたいと謳っています。

 第2節「広き世界の学芸と、古今の知徳照り映えて、命永遠なる亀鏡(みかがみ)は、青空高く輝けり」では、向上と進歩が本学の教育の根本であり、またそれらは人生の目的であることも示しています。広く世界と古今の知恵を求めて、永遠の亀鏡(キケイ)、つまり周りの人々の「手本」となるような人材に成長することを目指したいものだと語りかけています。

 第3節「あらゆる者を育みて、そだてあげしは女性なり、女性文化の帆を張りて、海路遙けく漕ぎ出たり」では、女性こそがすべてのものを育て、育むことができるのだから、学問を積み、知識を身に付け、徳を積んで、女性文化の発展のために一歩を踏み出しましょう、と呼びかけています。

(校歌、高女旗、学院旗)「学園の半世紀(昭和46年11月7日発行)」より引用

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 式典では必ず歌う校歌ですが、次の機会には是非、作詞者が校歌に込めた意味も考えながら歌ってみませんか。きっとまた新鮮な気持ちで歌えるのではないでしょうか。

「心を伝える」オルゴール [2017年04月21日(金)]

 オルゴールは、英語ではmusic boxと言います。それではオルゴールという名称はどこから来たのかというと、江戸時代の初期に自動オルガンをorgel、オランダ語で「オルヘル」、ドイツ語で「オルゲル」と読んだことから始まり、今では「オルゴール」と呼ぶようになったようです。日本では、初めのころは「自鳴琴」とも呼ばれていたそうです。

 オルゴールはもともと、懐中時計や指輪に仕込まれた小型のものから始まったそうで、ぜんまい仕掛けのばねや歯車で動かされていました。1815年に世界で最初のオルゴール工場が時計の産地でもあったスイスにできて盛んに生産されはじめ、19世紀になるとドイツにディスク・オルゴールが登場しました。

 昭和学園には、そのドイツで作られたディスク・オルゴールが3台もあるのをご存じですか。望秀学寮、東明学林、初等部にあります。ピン打ちした金属の筒が回るオルゴールはよく見かけますが、ディスク・オルゴールの中でも本学が所有している大型のものは、日本国内にいくつかあるオルゴール博物館まで出かけないと、なかなかその音色を聞くことはできないのではないでしょうか。

(望秀学寮にあるオルゴール)             (東明学林にあるオルゴール)

オルゴール正面      食堂オルゴール①

<望秀学寮 オルゴール曲目>
1.TRAUMEREI AND ROMANCE 2.THE TROUBADOR VERDI 3.CARMEN TORREADOR SONG 4.WEDDING MARCH 5.CONVENT BELLS 6.HOME SWEET HOME 7.LA PALOMA SERENADE 8.WAVES OF THE DANUBE WALTZ 9.THE BARBOR OF SEVILIA 10.PICOLO FANTASIE 11.THE BLUE BELLS OF SCOTLAD 12.KAYA KAYA

<東明学林 オルゴールに添えられている文章と曲目>
1.アヴェ・マリア 2.フニクリ・フニクラ 3.ニューヨークの鐘 4.ラ・トロヴィアータ 5.狩人の合唱 6.春の歌 7.きよし この夜 8.スケーターズ・ワルツ 9.歌劇「カルメン」より 10.ウインザーの陽気な女房たち 11.タクト

 専用のコインを入れると縦に置かれた直径60センチ以上もある大きな円盤形の金属板が回転して、演奏が始まります。ディスクの交換ができるので、11~12曲の演奏を聴くことが出来ます。玄関入ってすぐのところにこのオルゴールが設置されている初等部では、何か良いことをした児童がコインをいただいて、演奏を聴くことが出来るのだそうです。東明学林や望秀学寮では、事務室に行ってお願いすれば、誰でも聞くことが出来ますから、学生の皆さん、そして、卒業生の皆さん、是非、心を洗われるような音色を楽しんでください。

「開講の詞」の由来をご存じですか [2017年02月24日(金)]

本学の式典で、創立者人見圓吉先生の声で必ずお聞きする「開講の詞」。その由来をご存知ですか。実は、私が昭和41年に大学に入学してから昭和46年3月に卒業するまでの間、この詞を聞いたのは、たった1回だけでした。その理由は・・・。

「開講の詞」は本学の前身、日本女子高等学院が始まる前年の大正8年4月に設立された日本婦人協会の「設立趣旨」として配布されたようです。日本女子高等学院が開設された大正9年9月10日からは、その趣意書の詞が本学の建学の精神を表す「開講趣意書」となりました。

人見圓吉先生は、創立50周年の記念式で、「東京の山の手の町を歩いて塾に適当な家を探しました。当時の東京には空き家が多く1時間も歩けば4,5軒位は探し出せたものであります。しかし折角探し出しても帯に短かくたすきに長く、適当な家はなかなかなく、ようやく探し当てたのは1年余りの後のことでありました。その玄関の左側に「日本女子高等学院」の表札を出しました。それが大正9年9月10日で、(開講趣意書が)できたのはその日の午後2時ごろでありました。こうしてわが昭和女子大学の前身はこの世に生れ出たのであります。」と話されています。

(「日本女子高等学院」の表札)

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しかし、その後、暫くの間、「清き気品」「篤き至誠」「高き識見」の「校訓三則」や「真善美」の詞を本学の建学の精神を表すものとして良く聞くようになりました。

『学報』は本学の歴史を振り返るのに貴重な資料となるものですが、昭和45年の創立50周年記念式の記事に、「開講趣意書」として、また、昭和47年6月の第52回創立記念式では現在のように「開講の詞」として掲載されています。このころの学報には、入学式で「開講の詞」を聞いたという学生の感想もあるので、創立50周年以降に、現在のように、日本女子高等学院の「開講趣意書」が「開講の詞」として式典などで朗読され始めたのではないでしょうか。

「日本婦人協会趣旨」と「開講の詞」は、全く同じではありません。以下の「開講の詞」の該当箇所を赤字にし、青字で「日本婦人協会趣旨」を入れてみます。ちなみに、大正9年9月発行の坂本由五郎元本学教授が編集発行人であった雑誌『抒情文學』第2巻7号にも「日本婦人協会趣旨」は掲載されていますが、以下で参考とした『学報』の記載とは少し異なる部分もあるようです。

 

開講の詞開講趣意書

夜が明けようとしてゐる。

五年と云ふながい間、世界の空は陰惨な雲に掩はれて、人々は暗い檻の中に押し込められて、身動きもできなかった。けれど、今や、一道の光明が空の彼方から仄めき出して、新らしい文化の夜が明けようまさに明け放れよう)としてゐる。人々は檻の中から這ひ出し、閉ぢ込められた心を押し開いて、文化の素晴らしい暁光)を迎へようとしてゐる勢ひ立ってゐる)。    

夜が明けようとしてゐる。

海の彼方の空にも、わが邦土)の上にも、新らしい思想の光が、ながい間漂うてゐたふてゐた、)くろ雲を押し破って、眩しい目眩しき)ばかり輝き出そうとしてゐる。それを迎へて叫ぶ人々の声をきけ聞け)。霊の底まで鳴りひびく声を、力強いその叫びをきけ聞け)。既に目ざめた(目覚めた)人々は、文化の朝を迎へる可く、身にも心にも、仕度が十分調ってゐる。 

夜が明けようとしてゐる。

われ)の友よ。その愛らしき眼をと)たまま、逸楽の夢をむさぼる可き)はもう既に去った。われ等は、まさに来る文化の朝を迎へるために、身仕度をとり急がねばならぬ。正しき道に歩み出すために、糧を十分にと十分の糧を採)らねばならぬ。そして、目ざめ目覚め)たる婦人として、正しき婦人として、思慮ある力強き婦人として、文化の道を歩み出すべく、互ひに研き合はなければならない時が来たのである。

大正九年九月十日                日本女子高等学院

(開講の詞)

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初代理事長の人見圓吉先生がご逝去されたのが昭和49年2月ですから、私たちが式典でお聞きする圓吉先生の肉声は、その前に録音されたものだということになります。また、昭和55年2月の創立者記念講堂の完成と共に、「開講の詞」の碑が入口の壁に掲げられましたので、圓吉先生の肉筆の詩も録音よりも前に書かれていたものでしょう。

次に「開講の詞」を聞く時には、ぜひ、本学の前進である日本女子高等学院の扉が開かれるにあたって、詩人でもいらした人見圓吉先生がうたいあげた力強い「開講の詞」の原文にも思いを馳せてみたいと思います。

それでも山に登り続けた田部井さん [2016年12月22日(木)]

 田部井淳子さんは、英米文学科(今の英語コミュニケーション学科)を1962(昭和37)年に卒業された本学の同窓生です。病気でご療養中のところ、10月20日にご逝去されました。本当に残念でたまりません。

 1939(昭和14)年、福島県田村郡三春町にお生まれになり、大学卒業後、社会人の山岳会に入会、谷川岳や日本アルプスなどの冬山や岩登りに次々と挑戦されました。そして、1975(昭和50)年には、世界最高峰のエベレストに女性として世界初の登頂に成功されたのです。キャンプで雪崩に巻き込まれて負傷した時、隊長は「下山」を命じたのにも拘わらず、「私は登り続ける」という固い意志で、どうしても登頂を譲らず、歩みを止めなかったそうです。35歳の時でした。エベレスト登頂で、男社会だった登山界をも変えた、世界を変えた方でした。

 エベレスト登頂成功で、一躍世界中にその名を知られることとなり、1988(平成10)年には、第1号の福島県民栄誉賞を受賞。環境問題にも取り組み、エベレスト初登頂者のエドモンド・ヒラリー卿の呼びかけに応えて、1990(平成2)年には山岳環境保護団体の日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(Himalayan Adventure Trust of Japan=HAT)を創設して代表に就任。国内外で清掃登山や植林などの活動を続けられました。

 さらにその後も、キリマンジャロ、アコンカグア、デナリ(マッキンリー)、ビンソンマシフ、カルステンツ・ピラミッドの登頂に成功し、1992(平成4)年、欧州の最高峰エルブルース(5,642メートル)に登り、女性初の7大陸最高峰制覇を達成されたのです。その後も世界各国の最高峰登頂を目標に、毎年のように海外遠征に出かけられました。学内のカフェテリア・ソフィアの壁には、田部井さんから寄贈していただいた、登頂記念の写真が並んでいます。

 1995(平成7)年には、内閣総理大臣賞を受賞。積極的にそして前向きに楽しんで生きていくこと、周りに感謝することをいつも大切にされていました。2002(平成14)年から2013(平成25)年の間は、本学園の理事もお務め下さいましたし、その後も評議員を引き続きお務め下さいました。2012(平成24)年からは毎年夏に、震災復興を担う若者に自信と勇気を持ってもらいたいと、東日本大震災の被災地の高校生を連れて、富士山に登られ、理事会でも、「昨日山からもどったばかりです」などと、楽しそうにお話をしてくださいました。5回目となった今年の7月にも、高校生をつれて富士山登山に挑まれ、「とても厳しい状況にいる高校生たちに、一歩一歩進めば、いつかは頂点に着くと実感してもらいたい」とことばを添えた葉書をくださいました。

 こうして田部井さんは、がん発病後も登山を続けられ、「体に負荷をかけないほうがいい」と周りからアドバイスをされても、山登りをしているときのほうが元気でいられるし、ベッドで寝ていてもちっとも幸せじゃない、と語られ、肉体的にも精神的にも何にも負けない強い信念をお持ちの方でした。

 12月18日、田部井さんとともに活動し、また、支えていた方々が世話人となって、本学で「田部井淳子さんを送る会」が行われました。在りし日の田部井さんを偲ぶたくさんの方々が参会。世界で活躍された私たちの素晴らしい先輩に、平成18年度に続き来年度の女性教養講座の講師として、2回目となる後輩たちへのご講演をお願いすることに決定していました。お話をお聞きすることが出来ず、本当に残念です。
 
(本学で開催された「田部井淳子さんを送る会」)
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(送る会で配布された資料)
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 田部井さんを偲びながら、果たして自分には田部井さんのように人生で何があっても続けることがあるのだろうかと自問しています。

新校舎が姿を見せました [2016年12月16日(金)]

 昨年の11月から、校門を入ってすぐ左、創立者記念講堂の手前の歩道が通れなくなっていました。もともと、あまり幅の広くない歩道と車道でしたから、そんなに不便さは感じていませんでしたが、壁の向こう側には一体何ができるのだろうかと思っていた方も多いと思います。
 
 いよいよ、その姿を見せました。昭和女子大学の新校舎です。体育館のフロアもある3階建てのビルで、健康デザイン学科のほか、来年度新設の食安全マネジメント学科も入ります。食安全マネジメント学科では、食品の安全性や栄養学などに加えて、フードビジネスを学び、卒業後は、食品系の企業、外食産業への就職や、レストラン経営などを目指す人が多い学科になることでしょう。

(工事中の校舎とトルストイ像)
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 本学の歴史を振り返ると、1920(大正9)年に歴史の第一歩を踏み出した日本女子高等学院の課程を1946(昭和21)年に引き継いだ日本女子専門学校が、1949(昭和24)年に新学制によって昭和女子大学と改め学芸学部(国文学科、英文学科、被服学科、家政理学科)を設置した時が家政系学科の始まりといえるでしょう。1953(昭和28)年には、学芸学部が文家政学部(日本文学科、英米文学科、被服学科、生活科学科)に改められ、さらに1962(昭和37)年には、生活美学科が設置されています。1978(昭和53)年には文家政学部が、文学部と家政学部に分離。1994(平成6)年に家政学部が生活科学科となりました。2009(平成21)年には、生活科学部に健康デザイン学科を設置。生活科学科が管理栄養学科となりました。そして、2017(平成29)年には食安全マネジメント学科が生活科学部に新設されることとなったのです。本学にまた新たな学びの拠点ができます。
 
 校門を入ると左手に、白壁のシンプルで美しい新校舎と記念講堂が並ぶと、きっと壮観に違いありませんね。キャンパスもぐっと広くなります。新しい建物で学ぶ新しい学科。食安全マネジメント学科に将来の夢を抱いて、たくさんの受験生が集まり、新入生の皆さんが大いに成長されることを期待しているところです。
 
(新校舎と並ぶ人見記念講堂)
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野に出でよ [2016年11月25日(金)]

 私たちの年代の卒業生にとっては、学寮と言えば茅ケ崎や大磯の寮を思い出します。望秀学寮はもちろんのこと、東明学林もまだ出来ていなかったからです。神奈川県大井町にある本学の研修施設「東明学林」は1977(昭和52)年の3月に竣工式を迎えました。

(東明学林から望む富士山)
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 東明学林の「東明」とはもちろん、創立者人見圓吉先生のことで、先生の雅号です。東明学林は酒匂川を眼下に見下ろす12万平方メートルに近い自然の山の傾斜地をうまく利用して建てられた白亜の寮舎です。
 
 学林の入口近くには、創立者人見圓吉先生の詩碑があります。それは、富士山が一番美しく見える所に置かれていて、「ふるさとの碑」と名付けられています。先生の生まれ故郷、岡山産の赤花崗岩には、私の大好きな詩が刻まれています。
 
(ふるさとの碑)
ふるさとの碑

  
        人見東明

  
野に出でよ
あかときの光
草の葉 露にぬれ

地を踏め
やわらかに また
冷やゝかな
地をふめよ 足うらで

風さわやかに
木の葉を揺り
鳥の胸毛をふく

空を見よ
うつくしき空に
雲はたゞよう

野に出でよ 愛の野へ
野は自然の胸
つねに静かにして
安らかなり

 
 もうすぐ夜が明けそうな気配をわずかに見せつつも、まだ薄暗い「あかとき」。露のおりた草の中に足を踏み入れると、ひんやりとした大地を足裏に感じる。そんな感覚って、いつ体験したかはすぐに思い出せなくても、なんとなく分かりますよね。しっかりと足裏で大地を踏みしめると、いつも変わらずに自分を支え抱いていてくれる大自然の力が体に沁み込んで来るように思いませんか。
 
 東明先生たちと早稲田詩社を結成した野口雨情の田園詩集『枯草』の中に、「踏青(とうせい)」と題した詩があります。次はその1節です。
 

君よ青きを踏みたまへ
いざ野に出でて踏みたまへ
踏めば緑の若草に
ああ春の香は深からむ

 
 踏青とは、春の青草を踏んで遊ぶことや春に行われる郊外の散歩のことで、唐詩ではよく用いられることばだそうです。東明先生の詩も春に詠まれたのでしょうか。
 
 この歌碑の横には「学父の碑」があります。そこには東明学林開設当初から、創立者の分骨が祀られています。そして1995(平成7)年の3月には、これまで別々の場所に納められていた学母人見緑先生の分骨も合祀されました。毎年5月にはどなたでも東明学林内のツツジの花を楽しんでいただけるイベントもあります。是非、お訪ねください。そして、東明先生の歌碑と校祖夫妻の碑にお参りし、そこから正面に見える富士山を堪能してください。
 
(学父の碑)
学父の碑

秋桜祭 [2016年11月18日(金)]

 今年で第24回目となる秋桜祭(学園祭)が11月12日㈯と13日㈰の両日、快晴の秋空のもと開催されました。学生による実行委員会が企画・運営のすべてを取り仕切り、クラブ、クラス、研修グループ、プロジェクトグループ等に在校生や卒業生も参加して、多くの方々が「つなぐ」のテーマのもと、展示、プレゼンテーション、ステージパフォーマンス、バザーなど、盛りだくさんのイベントを繰り広げました。とても充実した2日間でした。秋桜祭のプログラムには、総務、庶務、会場管理、宣伝、企画、コンサートとトークショーのイベント担当など、総勢168名の学生スタッフの名簿が掲載されていました。大学全体のまとめ役として活躍された実行委員会の幹部の皆さんも、本当にお疲れ様でした。
 
(正門に掲げられた今回の秋桜祭の看板)
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 秋桜祭が16:00に終了して、大方の片付けも終わった頃、帰宅の途につきました。大学前の国道246号で渋谷方面に行くバスを待っていたところ、女子学生らしき3人組が、大きな袋をもって、ウロウロとしているのが目に入りました。来たバスに乗った後に、良く見ると、ゴミ袋とゴミ拾い用のトングを持って、道路脇に捨てられたゴミを拾いながら歩いていました。本学の学生の様でした。どこまで歩いて行ったのかは見届けていませんが、多分、三軒茶屋駅の方まで歩いたのではないかと思います。同じバスに乗った中年女性の二人組の方が学生達を見て「あら、ありがたいわね」と話しているのを聞いて、「うちの学生です」と自慢したいくらい嬉しかったのですが、それよりも、バスに乗る前に「ありがとう、お疲れ様」と声をかければよかったと後悔しています。後輩たちが、最後の最後まで、きちんと気を配り、有終の美を飾ってくれたことをとても嬉しく思いました。
 
(秋桜祭の様子)
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 本学では創立以来、学問研究の発表の場として大学祭が行われてきました。1955(昭和30)年3月の大火の後、秋の体育祭と同じように、春にも全学参加の行事をしたいということで、初夏の6月に「六月祭」と称して大学祭を行うことになりました。そして、その翌年からは付属校も参加することとなり、「昭和祭」と名付けました。1965(昭和40)年の6月には、三笠宮崇仁殿下が本学の「昭和祭」にご来館くださったことが、『昭和女子大学70年史』に記録されています。しかし残念なことに、1971(昭和46)年は学生運動の煽りをうけて、学科ごとに小規模な研究発表や展示は行いましたが、昭和祭には大学として不参加となってしまいました。すぐに学生から昭和祭復活の声があがり、1973(昭48)年に再開。その折に秋の「文化の日」の後に開催することになったのです。さらに1993(平成5)年から大学では「秋桜祭」という名称で、学生の自主的な企画・運営による学園祭が始まり、今日を迎えています。
 
(1970年前後の昭和祭の大学パンフレット)
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 来年の秋桜祭が今から楽しみです。

「朝風薫る武蔵野の緑ヶ丘・・・」ってどこ? [2016年11月11日(金)]

 校歌の第1節にある「武蔵野の緑ヶ丘」は、残念ながら、世田谷キャンパス近辺のことではありません。

 昭和女子大学の校歌は、実は、昭和女子大学と呼ぶようになる前から歌い継がれてきたものです。初めて校歌が歌われたのは、大正15 (1926) 年6月5日、上高田の新校舎の落成式でした。上高田の校舎は東京府豊多摩郡野方町上高田39番地にありました。野方町は現在の東京都中野区の北部にあたる地域で、明治22(1889)年の町村制施行でいくつかの村が合併して野方村に、さらに大正13 (1924) 年には野方町となっています。校舎の住所にある上高田はJRの東中野駅の近くです。武蔵野の「緑ヶ丘」は地名ではなく、上高田校舎の近くには小高い丘が続き、武蔵野の木々の緑が美しい地帯だからこう詠われた。
 
(上高田校舎全景)
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 昭和20 (1945) 年に本学の前身である日本女子高等学院がこの世田谷の地に移転し、昭和女子大学とその名を改めたのが、昭和24年のことでしたから、昭和女子大学となるまで24年前校歌はすでに歌われていたことになります。学父人見圓吉先生が作詞されたその歌詞には、本学の教育の理想が込められています。
 

第1節後半 「学びの庭の八重桜色香も清く咲きみてり」
 本居宣長の「敷島の大和心を人とわば、朝日に匂う山桜」(日本人の心とは何かと尋ねられたら、朝日に照り映える山桜の花の美しさに感動するような心です、と答えよう)に詠われているように、日本人の心を大切にして、高尚な精神と卓越した識見を備えた人となりましょう。

第2節   「広き世界の学芸と古今の知徳照り映えて、~」
 広く学を東西に求めて、知徳を高め、周りの人々の模範となれる輝く人となりましょう。

第3節   「あらゆる者を育みて、育て上げしは女性なり、~」
 学を積み、知徳を磨いて人格を高め、その力を創造的に発揮し、人道を照らし、女性文化の高揚につとめましょう。

 上高田の新校舎落成式で歌われた第3節後半の歌詞は、

 女性文化の帆も白く
 海原遠く漕ぎ出たり

であったそうです。しかしその後、学父の意図で現在の歌詞「女性文化の帆を張りて 海路はるけく漕ぎ出たり」となりました。

 一方、作曲者は不明です。歌詞が完成して作曲をお願いしたはずの方に後に確認をしたのですが、ご本人の作だということがはっきりしなかったため、作曲者不詳となっています。
 
 昭和13年に英文学担当教授が英訳されたものが『昭和女子大学70年史』(p.84)に掲載されていました。

THE SCHOOL SONG

When the morning breeze is sweet
   In the Musashino’s field,
And the mild spring softly smiles
   In the green grass hill,
Cherries in the garden ground
   Of our learning’s home
Blossom out in colours bright
   And with sweet perfume.

Learning of the world-wide breadth
   And all sorts of arts,
And achievements, old and new,
   With resplendent light,
In the mirror, bright and clear,
   Of eternal life,
Shine reflected in the blue
   Of the heaven above.
 
To bring up all things of life
   To their perfect states
Is the virtue that belongs
   To maternity.
In the ship that hoists the sail
   O’ cultured womanhood,
O’er the ocean’s waves we glide
   Onward and afar.
 
March 22, 1938
Translated by Tetsuzo Okada

 
 問題:上記の英詩を日本語にしなさい。

 もちろん、全員正解ですよね!?

恩師同窓の墓 [2016年11月04日(金)]

 毎年11月には世田谷区若林にある松陰神社で、恩師同窓の合祀慰霊祭が行われます。
 まだ上高田に校舎があった昭和15(1940)年、創立20周年の記念事業として、学父人見圓吉先生は「恩師の墓」を、さらに昭和18(1944)年には「同窓の墓」を、亡き恩師、校友と学園が将来永久に精神的に結ばれていることの証として、校舎近くの清原寺に建立されました。
 
(清原寺にあった恩師同窓の墓)
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 その後、校舎が上高田から世田谷のこの地に移り、昭和36(1961)年に「恩師の墓」と「同窓の墓」が世田谷キャンパスの近くにある、学問の神と崇められる吉田松陰が祀られている松陰神社の境内の霊園に改葬されたのです。

(現在の恩師同窓の墓)
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 松陰神社は、東急世田谷線の松陰神社前駅を降りて、松陰神社通りの商店街を北に歩き、約3分位の所にあります。境内には吉田松陰の墓所をはじめ、松陰門下の伊藤博文、山縣有朋等によって奉納された32基の石燈籠も並んでいます。また、山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模した建物を見学することもできます。
 
(松陰神社)
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 松陰は天保元(1839)年、長州藩(現在の山口県)萩で毛利藩士であった杉家に生まれました。11才で藩主の毛利慶親公に山鹿流兵学の『武教全書』を講義した程の勉強家でした。その学問の幅は広く、西洋の文明や兵学についても深い知識を持ち、下田沖に停泊中であったペリーの軍艦に乗船してアメリカに連れて行ってもらうおうと懇願したこともありました。嘉永6(1854)年のことです。

 この計画が失敗に終わり、江戸、そして萩で投獄されましたが、萩にいた1年2か月間に約600冊の本を読破し、同じく投獄されていた人々に『論語』などを教える傍ら、海外の強国から日本をどう守るかを研究しました。安政2(1856)年に松陰は許されて杉家に戻り、そこに孟子の教えを学びたいという若者が多く集まることとなり、叔父の玉木文之助が以前に開いた松下村塾という名を付けた塾をはじめたのだそうです。

 安政5(1859)年に井伊直弼が大老となり、日米通商条約に調印したことから安政の大獄が起こり、松陰も日本の安全が脅かされることを恐れて藩主や塾生に意見書を送ったことから、塾は閉鎖、松陰は再び投獄され、その翌年、江戸伝馬町獄舎で処刑されました。享年30歳でした。その4年後に、門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、毛利藩の別邸があった現在の世田谷の地に改葬されたそうです。学問の神を祭った神社として、全国各地から参拝者が訪れます。

 中高部の生徒であった頃は、「行学」の時間にクラスごとで松陰神社に恩師・同窓の墓に参り、周りの草むしりをしたり、落ち葉を集めたりしました。都会の中にありながら、静かな森に囲まれた境内に届く、鳥のさえずりやそよ風に揺られる木々の葉音を懐かしく思い出します。境内は、春、夏、秋、冬それぞれに景色を変えます。冬も近くなり、美しい紅葉の季節が終わろうとする頃、突然降り出した雪をかぶった石燈籠が一列に並ぶ光景はとても素敵でしたよ。

 大学のキャンパスからウォーキングのつもりで歩いても、30~40分の場所にあります。皆さんも是非、お尋ね下さい。