京都見物に行った学生が三十三間堂で頭痛のお守りを買って来てくれた。三十三間堂は天台宗妙法院の境外仏堂で蓮華王院本堂というのが正式名称だ。中央に本尊の湛慶作千手観音坐像を祀り、左右の内陣には1000体の千手観音が安置されている。この地は後白河法皇が離宮として建てた法住寺殿があった所で、その広大な離宮の一画に建てられたのが蓮華王院の本堂、つまり三十三間堂である。法皇が平清盛に建立を命じて長寛2年(1165)12月17日に完成したという。この程度の知識なら修学旅行で見学したから知っているぞという人も多かろう。しかし、この三十三間堂がかつて頭痛山平癒寺と呼ばれていたのを知る人は思いのほか少ない。教科書に載っていないからだ。でもね、「教科書に書いてあることだけじゃわからない」(BEGIN『島人ぬ宝』)のが歴史というものだ。
天保7年(1836)2月に蓮華王院が出版した『京都三拾三間堂略縁起』という小冊子には、「後白河法皇はいつも頭痛に悩まされていた。典医による治療でも治らず、諸所の神社仏閣に祈っても効験がなかった。そんなある日、法皇の夜の夢に熊野権現が現れて、『法皇よ、そなたは前世においては諸国行脚の僧であった。仏道修行の功徳によって今世で帝位に昇ることができたのだ。しかし、前世の髑髏は熊野の岩田川のほとりに野ざらしになって朽ちている。その上には柳の大木が繁茂している。だから風が吹いて柳の枝葉が揺らめくと、そのたびごとに頭痛がするのだ』と告げた。さっそく法皇が調べさせると、お告げの通り髑髏はあった。そこでこれを拾い上げて本尊千手観音の頭部に納め、柳の大木を梁の用材として三十三間堂を建立したところ法皇の頭痛は日を追って平癒した。その後、頭痛を患う人々が群参するようになり、それがみな平癒したので、いつしか頭痛山平癒寺と俗称されたのだ」と三十三間堂建立の由来が記されている。なんと、三十三間堂は後白川法皇の頭痛平癒を祈願して建てられたのだった。そう伝える略縁起の世界は面白い。なお、今でも1月15日に「楊枝浄水供」という法要が行われている。寺の年中行事でもっとも大切な法要で、後白川法皇の頭痛平癒に起源すると伝え、頭痛封じにすぐれた効験を発揮するという。
ところで、学生が買って来てくれた頭痛のお守りを、いつも「頭が痛い」と呻いている婆さんにやったところ、「わたしの頭の痛いのは頭痛ではないの」というので、「そんじゃ、なんなの?」と聞いたら、「アンタみたいな人と一緒にいるから頭が痛いのよ」と怒声を響かせた。法皇の前世の髑髏も粉々に砕けたのではないかと心配している。
※ 後白河法皇の前世の髑髏が頭中に納められているという
三十三間堂の本尊・千手観音坐像。国宝である。
(仏教文化史担当・関口靜雄)