史料を考える

こんにちは。日本近世史の野口です。

歴史学では、史料(古文書)に書かれていることから歴史を明らかにしていきます。
ですから、史料に書かれていることはとても大事なのですが、史料が作られた背景や
作った人物のことを考えることも大事です。今回は、江戸時代を知る上で基礎的な史料
である『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』という史料を考えてみたいと思います。

『寛政重修諸家譜』は、一言で言うと、全国の大名・旗本の系図です。しかし、この史料
は、彼らの氏名、母、領知、将軍・幕府に対する功績(時には罪)、さらに法名や墓地に至るまで、様々な情報が記してあります。このため、現在でも、江戸時代を知る上で欠かすことの出来ない基礎的な史料となっています。実際に、近世史ゼミでも多くの4年生が卒業論文を書くにあたって利用しています(右側の写真は『寛政重修諸家譜』ではありません。旗本家の系図です)。

『寛政重修諸家譜』は、寛政11(1799)年、江戸幕府の若年寄堀田正敦(ほったまさあつ)
が幕府に対して編さんの許可を求めたことから始まります。そして、許可がおりると、
正敦自ら総裁となり、儒者林述斉(はやしじゅっさい)を中心に編さんを行い、
文化9(1812)年、ようやく完成しました。
原本は、東京都千代田区の国立公文書館にありますが、続群書類従完成会という
出版社からも刊行されており、全国の図書館で見ることが出来ます。

それでは、堀田正敦は、なぜこの『寛政重修諸家譜』を作ったのでしょうか。実は
正敦は、仙台藩主伊達宗村(だてむねむら)の8男でしたが、下総佐倉藩堀田家の
分家である近江堅田藩堀田家の藩主堀田正富に実子がいなかったため、彼の養子と
なり堅田藩を継ぎました。
言ってみれば、正敦は大名の庶子(家を継がない子ども)という立場から分家大名家を
相続したという経歴の持ち主であり、彼にとって本家や分家という「家」通しの
つながりは日常的に意識されていたでしょう。

それから正敦は若年寄という老中に次ぐ幕府の重職に就いていましたが、『寛政重修諸家譜』
がつくられた時期は、彼も参加した老中松平定信による寛政の改革が行われていました。
改革では、崩れつつあった身分制社会の立て直しが目指されましたが、本家と分家は、
江戸時代の基本的な上下関係でした。
『寛政重修諸家譜』でも、どの大名家・旗本家でも、本家が必ず最初に書かれ、次に分家が
書かれました。これによって誰が、どの「家」が本家であるか、分家であるか、つまり
上下関係がどうなっているのか、一目瞭然になるのです。ここに本書の最大の編さん意図が
あると考えます。
実際、本書の序文で正敦は「宗庶をわきまえをもって政化をつなぎ、志をもって民を定め世族の国恩を
保ち、ますます徳沢の流れをかたくする」と述べています。つまり「宗庶」=本分家をわきまえながら
政治を行うことで秩序が安定すると言うのです。

『寛政重修諸家譜』は、単なる系図ではなく、幕府の政治や、本家・分家関係という
社会組織とも密接に関係した史料です。こうした観点から、この史料を使用していくこと
も可能でしょう。