【本の紹介】飲食朝鮮―帝国の中の「食」経済史

こんにちは、松田忍(日本近現代史)です。

新型コロナウイルスの流行でさまざまな行事が自粛されている昨今、若い皆さんもなかなか活動的に動くことができないでいらっしゃるかと思います。ただそんな中、家でもやれることがあると思います。その一つが読書です。今日は松田オススメの本を1冊紹介します。

林采成さんの『飲食朝鮮―帝国の中の「食」経済史』(名古屋大学出版会、2019年)です。

みなさんも歴史で勉強した通り、1910年から1945年までの間、朝鮮は日本の植民地でした。ところで植民地支配というと政治的に「支配する/支配される」のみに注目され、大日本帝国を範囲とする経済圏や文化圏が成立したことは見落としがちなのではないでしょうか。

近年の研究では、たとえば当時の修学旅行で朝鮮半島や満洲にいくことが不思議ではなかったことや、学校を卒業し「いざ就職!」となった若者達が大日本帝国全域を就職先として想定していたことなど、さまざまな事例が指摘されるようになりました。また、その移動も日本から植民地だけではなく、植民地から日本へ、植民地から植民地へと、双方向に数多くの人が行き交ったことが注目されています。戦争と外交の結果として形成された大日本帝国の存在が、人びとが生活する範囲を大きく変えていったともいえるでしょう。

さて、林さんのこの本は大日本帝国の経済圏を「食」分野に絞って切り取った斬新な本です。

とりあげられている事例は、米、牛(牛肉)、朝鮮人参、牛乳、りんご、明太子、焼酎、ビール、煙草と我々の身近にある食品や嗜好品なのですが、それぞれの産品をめぐって日本と朝鮮との関係が展開する様子が本当に面白いんです!!

たとえばりんごを見てみましょう。

朝鮮では、李氏朝鮮時代の末期にはりんごがつくられるようになっていましたが、商業的な栽培ではなかったそうです。しかし日露戦争(1904~1905年)以後、日本人の農業移民が朝鮮半島でりんご栽培をはじめ、日本人技術者からの技術指導を受けて、朝鮮半島の特定地域にりんごの特産地が生まれます。特産地では、やがてりんご果樹園を経営する朝鮮人もうまれ、さらに技術改良を進めた結果、ついに青森のりんごと朝鮮のりんごがライバルとなったそうです。

その激烈な販売競争は当時「苹果戦」(ひょうかせん)と言われたそうです。「苹果」というのは昔のことばで「りんご」を意味することばですから、つまり「りんご戦争!」ってことですね。

そしてついに1940年代になると、青森と朝鮮のりんご特産地の「利害調整」のために朝鮮総督府が介入してきます。それでも朝鮮におけるりんご生産は発展を続け、1945年以降も朝鮮の食文化にりんごが深く根づいていくというお話しです。

このストーリーをみると、帝国圏内の政治や経済や文化がりんご1つにギュッと凝縮されているような面白さを感じますよね!

次に牛(牛肉)を見てみましょうか。

文明開化の時代から明治時代後半、さらに大正時代へと時代が進み、日本に牛肉を食べる文化が急速に広まっていきます。とはいっても最初から肉牛として肥育する牧畜が盛んになったわけではなく、牛を農作業などに使ったのち、大きくなってきたら肉用として売却することが普通でした。

一方朝鮮半島においては、牛を使った農業が日本よりも幅広くおこなわれており、長い歴史的な背景がありました。そして日本牛よりも朝鮮牛のほうが体格も良く繁殖力が高かったのです。

そこに目を付けた日本人は朝鮮牛を買ってきて、日本で育てて役牛として用い、肉を売ることを始めます。その移入規模は毎年数万頭に達しました。また「満洲国」も朝鮮牛に目をつけたため、朝鮮から「満洲」に売られる牛も1万頭以上の規模に達しました。それは朝鮮牛が「帝国の牛」になっていく過程だったと述べられています。

しかし1930年代から40年代にかけて、日本牛の体格が良くなっていくのに対し、「健康な」朝鮮牛が移出されていった結果、朝鮮牛の体格はどんどん小さくなっていきます。「健康な」牛の産地として栄えた朝鮮でしたが、結果として、「朝鮮牛は日本牛の増殖のための補給源に過ぎなかったといわざるを得ない」(74ページ)と林さんは結論づけています。

ここにもまた単純な「収奪する/される」の関係だけではなく、利益を求めたり、新しいものを食べたいと思う一人一人の人間の動きが束となったときに、歴史を形成するダイナミズムが生まれることを感じられますよね。こうした動きをイメージできていれば植民地の意味もより深く理解できそうです。

その他の章も、朝鮮半島との密接な関係がうみだした福岡の明太子など抜群に面白い事例ばかりです。さまざまなデータも豊富に掲載されていて、グラフを眺めているだけでも気づくことはたくさんあるよ!

是非自分で手にとって読んでみよう!