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ショウタ4才がんばります [2016年12月16日(金)]

懸命に背伸びをしながらドア越しに外を見ている男の子が、時折、「ショウタ4才がんばります」と独り言をいう。(おお、ショウタ君、4才か。なんだかわかんないけど、がんばれ)と私は心の中で応援した。また、また、また言った。「ショウタ4才がんばります」今度は力強い。と、振り向いて、「お母さん、10両連結だった」と言った。スマホに熱中するお母さんは、「10両だった。エライね、また教えて」と応じた。ショウタ君は通過する快速の車両数を数えていたのだった。どうやら10両以上数えられると意気軒昂になるようだ。ショウタ君はまた背伸びをしながら快速の通過を待ち構えている。

亀戸駅で停車した。ドアが開いたままだ。「錦糸町駅で線路に横たわっている人がいる」からしばらく停車すると車内放送があった。乗客は多くはなかったが、それでも「線路に横たわっている」という説明に反応してあれこれと推量を口にしていた。

さてショウタ君、駅名看板を読みだした。

「か・め・い・ど」(おお、平仮名も読めるのか。10両だとか、連結だとか知ってるし、すごいぞ。)

「亀〈かめ〉。…お母さん亀の次の字なあに?」 (亀が読めるのか。すごいぞ。でも)

「戸〈と〉」とお母さんは相変わらずスマホがてらに答えた。

「かめ・と」「かめ・と?」

「お母さん、〈い〉は?」

「亀・戸と書いて、かめいど、と読むの」

「いつから?」

「昔から」

「かめと・かめいど・むかしから」「かめと・かめいど・むかしから」

ショウタ君は小さくつぶやいていた。

4才ショウタ君はすごい。亀が読めて、戸が読めなかった不思議な4才ショウタ君。感動ものだ。頭が下がる。わたしは小学校入学式前夜まで平仮名書きの自分の名が読めなかった。父親がどこからか「あいうえお」積み木を借りてきて一字ずつ覚えさせようとしたが駄目だった。出来の悪いアホだったのだ。4才ショウタ君に刺激されて下車して天神様にお参りに行った。少しは賢くならねば。

太鼓橋を渡っているうちに、ついでに散歩しようと思いついた。香取神社と伏見稲荷を拝んで、臥龍梅の梅屋敷跡に行った。「ここで、お露は新三郎を見染めたんだったな。むかしは若い二人の出会いにも風情があったんだ」「一茶も子規も来たんだ」などと一人愉しんだ。ゴッホも真似た広重の絵が説明版に載せてある。なら北斎にも挨拶しなければと少し歩いて祐天上人を拝み、芥川や左千夫も遊んだ柳島の妙見様・法性寺の北斎墓に詣でた。しばらく来ないうちに境内はずいぶんと整理されていた。門前の西十間橋の上にはスカイツリー撮影用の高価なカメラだけが並んでいる。はてさて次はどう行こう? 能勢の黒札海舟様か押上春慶寺の左馬之助かと迷って、結句春慶寺脇のいなり寿司を土産にするという理由をつけて春慶寺にお参りした。ここはスカイツリーのてっぺんも仰向けに寝っ転がらねば見えないなと思っていたら、実行している人がいたので驚いた。

4才ショウタ君に刺激されて、ちよっと寒かったが古希老人はがんばって歩いてしまった。

(仏教文化史担当・関口静雄)

 

歴文卒業生 石原奈央子さんがリオ五輪 クレー射撃日本代表に選ばれました [2016年06月24日(金)]

歴文第2期生の石原奈央子さんがリオ五輪クレー射撃女子日本代表に選ばれました。

まことに慶賀に堪えません。

石原さんは栃木県鹿沼市にある古峯神社で神職として働きながらの快挙でした。

心からの祝福を捧げます。

古峯神社は石原さんのご実家で、卒業論文も「古峰神社の研究」でした。1300年以上の歴史を誇る神社の歴史を丁寧に辿ったもので、過不足のないピシッとした内容であったと記憶しています。講中が全国に2万以上も存続しているという一節は、今でも明確に覚えています。その厖大な数に驚いたのです。そのことを口頭試問で問うと、資料を挙げて冷静に答えておりました。少しばかりのことでは動じない人だな、という印象が残っています。

三人姉妹で、自分が神社を継ぐことになっているとも言っておりましたが、まさか射撃の選手になっているとは思いませんでした。

古峰ヶ原は日光山を開いた勝道上人の修行地で、また古峯神社は「お天狗さま」「天狗の宿」と称されて古い時代から庶民に親しまれている霊場聖地です。天狗の御加護は石原さんの身にも及ぶはずです。五輪での大活躍を祈る次第です。

古峰ヶ原の奥院・金剛山瑞峯寺が印施したお天狗さまの御影札を添えておきます。

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(仏教文化史担当・関口靜雄)

元三大師と月子姫 [2015年07月03日(金)]

四天王寺にお詣りしたという友人が角大師のおふだをくれた。

その折、話が弾んで、もう50年も前に天台座主の元三慈恵大師良源が比叡山麓に住む母の乳を求めて徃返したという道を歩いたことがあるのを思い出した。もちろん谷崎潤一郎の『乳野物語』の影響を受けてしたことだった。

天台座主の大僧正が夜な夜なこっそり母の乳を吸いに山道を徃返したというその道には「乳野」とか「元三大師御母公妙見菩薩」と彫られた石標があって、伝説が単なる伝説ではないような気分になったのを覚えている。

母公は月子姫といった。大津市千野の安養院には母公の墓所があって、妙見菩薩として祀られ、安産・子育てにご利益があるという。

三日は元三大師のお命日。天台宗寺院の元三大師堂の扉が開く。

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(仏教文化史担当・関口静雄)

 

 

新年になっても [2015年01月09日(金)]

年越しそばをすすっていたら、
 そのうち そのうち
 べんかいしながら
 日がくれる

という相田みつをの詩を思い出した。
この詩は、足利の鑁阿寺(ばんなじ)にお参りした時、昼飯に寄った蕎麦屋の壁に貼ってあった色紙で知ったのだった。同道してくれた若い友人が、「そのうち、そのうちっていうのは弁解なんですね」と云ったので、「ああ、そうなんだ」と今さらながら思い知らされ、そのときは少し反省の気持ちも生じたのだった。しかし、以来、蕎麦をすすると決まってこの詩を思い出す。「そのうち、そのうち」。(仏教文化史担当・関口静雄)

☆頭痛山平癒寺☆ [2014年06月26日(木)]

 京都見物に行った学生が三十三間堂で頭痛のお守りを買って来てくれた。三十三間堂は天台宗妙法院の境外仏堂で蓮華王院本堂というのが正式名称だ。中央に本尊の湛慶作千手観音坐像を祀り、左右の内陣には1000体の千手観音が安置されている。この地は後白河法皇が離宮として建てた法住寺殿があった所で、その広大な離宮の一画に建てられたのが蓮華王院の本堂、つまり三十三間堂である。法皇が平清盛に建立を命じて長寛2年(1165)12月17日に完成したという。この程度の知識なら修学旅行で見学したから知っているぞという人も多かろう。しかし、この三十三間堂がかつて頭痛山平癒寺と呼ばれていたのを知る人は思いのほか少ない。教科書に載っていないからだ。でもね、「教科書に書いてあることだけじゃわからない」(BEGIN『島人ぬ宝』)のが歴史というものだ。

 天保7年(1836)2月に蓮華王院が出版した『京都三拾三間堂略縁起』という小冊子には、「後白河法皇はいつも頭痛に悩まされていた。典医による治療でも治らず、諸所の神社仏閣に祈っても効験がなかった。そんなある日、法皇の夜の夢に熊野権現が現れて、『法皇よ、そなたは前世においては諸国行脚の僧であった。仏道修行の功徳によって今世で帝位に昇ることができたのだ。しかし、前世の髑髏は熊野の岩田川のほとりに野ざらしになって朽ちている。その上には柳の大木が繁茂している。だから風が吹いて柳の枝葉が揺らめくと、そのたびごとに頭痛がするのだ』と告げた。さっそく法皇が調べさせると、お告げの通り髑髏はあった。そこでこれを拾い上げて本尊千手観音の頭部に納め、柳の大木を梁の用材として三十三間堂を建立したところ法皇の頭痛は日を追って平癒した。その後、頭痛を患う人々が群参するようになり、それがみな平癒したので、いつしか頭痛山平癒寺と俗称されたのだ」と三十三間堂建立の由来が記されている。なんと、三十三間堂は後白川法皇の頭痛平癒を祈願して建てられたのだった。そう伝える略縁起の世界は面白い。なお、今でも1月15日に「楊枝浄水供」という法要が行われている。寺の年中行事でもっとも大切な法要で、後白川法皇の頭痛平癒に起源すると伝え、頭痛封じにすぐれた効験を発揮するという。

 ところで、学生が買って来てくれた頭痛のお守りを、いつも「頭が痛い」と呻いている婆さんにやったところ、「わたしの頭の痛いのは頭痛ではないの」というので、「そんじゃ、なんなの?」と聞いたら、「アンタみたいな人と一緒にいるから頭が痛いのよ」と怒声を響かせた。法皇の前世の髑髏も粉々に砕けたのではないかと心配している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※  後白河法皇の前世の髑髏が頭中に納められているという
       三十三間堂の本尊・千手観音坐像。国宝である。

(仏教文化史担当・関口靜雄)

轍を踏むことなかれ [2014年01月10日(金)]

新しい年のはじめにあたって、「今年こそは」と何ごとか胸に抱かれたことと思います。
夢や希望や野心は、生きている人間の、とくに若者の特権です。その実現に向かって工夫や努力をする。そこに進歩があります。目標を明確にし、計画を具体的に立てる。あとは一心不乱に突き進むだけです。
植物は、根・茎・葉が一様に平均して成長するのではない、とお隣の田中さんが植木に水をやりながら教えてくれました。ある時期は根が、ある時期は茎が、ある時期には枝葉がのびる。花が開いてしまってから肥料をやっても有効ではない、無駄であるというのです。学生には学生のやるべきことがあります。100円では100円のものしか、1000円では1000円のものしか買えないのです。
三軒茶屋の老舗パン屋の精養堂が新築のマンションに入って、昨年末から店名もフランス語に変えて、ペンギンぱんを売り始めました。「3羽くれ」といったら、西洋アンティーク好きの女主人から「来年は成長してね」といわれた。「ふん、もう遅いのだ。俺の花は疾うに散ってしまって、これから成長するなんてありえないのだ」とペンギンを頭から食いちぎりました。中はクリームだった。乳製品が苦手なわたしが、なんとか1羽食べ終えた。女主人の「来年は成長してね」の意味が少し分かったような気がしました。
若者は、すべき時にすべきことをしなかった老人の轍を踏むことなかれ、と祈ります。
                                                                                      (日本仏教文化史・文献取扱技能基礎担当・関口靜雄)

                                 

【授業紹介】文献取扱技能基礎 [2013年10月18日(金)]

今日は文献取扱技能基礎(関口靜雄先生)の授業にお邪魔して、「古文書の裏打ち」実習の風景を撮影してきました。裏打ちとは虫に食われたり、汚れたりして傷んだ紙の裏に、別の紙を貼って補強する技術のことですよ。関口先生によりますと、裏打ちにもいくつかのやり方があるそうなのですが、授業では「スチーム→汚れ除去→虫損補修→裏打ち」の手順で行っているそうです。

では写真を交えながら、紹介していきます!!

まずは古文書にスチームをあて、古い裏打ちの紙を取り除いていきます。

次に汚れや古い糊を目視しながら、手作業で少しずつ取り除いていきます。

本当に細かい手作業になります。緊張感あるねぇ!


作業が一段落ついて、緊張がとけた学生の図。こらっ、気を緩めるなっ!!笑

さらに虫損(虫食い)部分を丁寧に補修していきます。

で、最後は丈夫な紙で裏打ち!!連続写真でご覧下さいませ。

ホッと一息&充実感。いい表情です 🙂

この授業では、最初に1人1点の古文書が割り当てられ、大きさの計測や裏打ち作業、そして書いてある内容の読解など、古文書の取り扱いに必要な一連の作業を全てこなすらしいですよ。くずし字を読むのがたいへんだから、文字の少ない古文書を選ぶ学生が多いとか、少ないとか笑 でも一連の流れで古文書を世話していき養生したら、きっとその1枚に愛着が湧くのでしょうねぇ!!

とても楽しそうな授業なので、私も学生と一緒に授業に出て、勉強したくなりました!!

以上、松田忍がお伝えいたしました。

浅草橋 [2013年07月01日(月)]

 お笑いコンビのさまぁ~ずが浅草橋を探訪する番組を見た。浅草橋から蔵前・浅草に抜ける表通りを歩き、路地に入ってはユニークな小店を紹介していた。須賀神社の境内でダンスに励む少女たちの活躍をズームアップしていたが、この神社が疫災除けの守護に団子をふるまうことから、俗に団子天王と呼ばれることに一言もなかったのは残念だった。
 須賀神社の北隣に、かつて称光山長延寺華徳院があった。路地端に閻魔堂跡の小さな石碑が建っている。問屋街の有志たちが建てたものだ。この華徳院の本尊が閻魔王で、運慶の作だと伝えられ、鎌倉円応寺の国宝閻魔像と姉妹刻だという。円応寺の閻魔像は、地獄に堕ちた運慶が、閻魔大王像を彫ることを条件に赦されて蘇生し、笑いながら彫ったという。この話を知っていたラフカデオ・ハーンは、おふだを手にして感激したのだった。
 そういえば、蔵前の古書店でもう30年も前に買った『閻魔めぐり』という小冊の中に華徳院のおふだが挟まっていたのを思い出した。裏表紙に150円と鉛筆書がある。安い買い物だったのだ。
 浅草橋といえば、今でもことあるごとに問屋街を歩くのだが、子どものころ、林間学校に行く前に花火を買いによく来たものだ。先生が問屋のオヤジと交渉してたくさん花火を買ったあとは、4,5人の子どもたちが抱えて帰るのだった。どの先生に付いて行っても、帰途には決まって立喰寿司で海苔巻きを食べさせてくれた。戦後の給食もあったりなかったりの時代だったから、欠食児童には海苔巻きは大御馳走だった。ちなみに給食は、小岩生まれの校長先生が、相撲の栃錦とプロレスの力道山が負けると出さないのだと噂されていたから、子どもたちは給食ほしさに栃錦と力道山を一生懸命応援したのだった。なにもかにも懐かしい思い出になってしまった。
 あの立喰寿司屋が今も健在なのはうれしい。華徳院は関東大震災後に杉並区松ノ木に移り、震災から守り抜いた閻魔像を今も大切に祀っている。これもとてもうれしいことだ。
(仏教文化史・関口靜雄)

会津研修学寮 ―出会い― [2012年12月04日(火)]

4年生と会津研修学寮に行きました。原発の風評被害にいまだ苦しむ会津ですが、雪の磐梯山とみごとな波紋を広げる猪苗代湖は素晴らしく、会津学寮に来るたびに、歴史文化学科は会津に移転すればいいのになぁ、と呟いてしまいます。

初日の16日に湖畔の関脇に、「オンバサマ」を祀る優婆夷堂(うばいどう)を訪ねました。オンバサマは葬頭河原の脱衣婆がいつしか安産の神様として祀られたもので、猪苗代湖畔では各集落ごとに石像のオンバサマが祀られています。
関脇の優婆夷堂は昭和一桁の有志によって護持されていますが、この日ご案内くださったのは鈴木勘左衛門さんで、その丁寧な説明に学生たちも感銘を受けた様子でした。さらに驚いたのは、お暇をする際に、勘左衛門さんの姉上様が駆けつけてくださり、聞けばわが昭和女子大学の「古いふるい卒業生で、昭和で学んだおかげで38年間の教員生活を全うできた」と語られたことでした。これには一同緊張し、感激して涙ぐむ学生もおりました。昭和の卒業生でもある安藏先生は静かにうなづいておられました。天気もよく、出会いもよく、とてもよい一日でした。優婆夷堂でいただいたオンバサマのおふだを添えておきます。

次に訪れた野口英世記念館の英世くんロボットについても紹介したいのですが、今日はこの辺で止めておきます。(仏教文化史担当・関口静雄)

安宅丸(あたけまる) [2012年07月11日(水)]

教育実習校へ御挨拶のために千葉県稲毛まで行った帰り、総武線車中で御婦人の一団が、「今日は御座船に乗るのだ。天気もいいし、隅田川からでも東京湾からでもスカイツリーがよく見えるに相違ない。料理も豪華だ」などと賑やかに語らっていた。

御座船といえば、日本游泳術(いわゆる古式泳法)を研究していた大学院生が、「御座船安宅丸で東京湾クルーズしましょうよ」と誘ってくれたことがあったが、あいにくその日は白浜海岸の浄土宗寺院に文書拝見の約束があって参加できなかったのを残念に思っていた。

深川安宅町という町名があった。江東区新大橋1丁目あたりで、安宅丸はじめ幕府の軍船を格納する御船蔵があった。面積4890坪の広さに大小14の船蔵が並んでいたと伝える。「安宅丸繋留地跡」の石碑が建っていて、「安宅丸は北条氏が造船したもので、その動力は400人の水夫が2百本のオールを交代で漕ぎ、米4千石(1万俵)と多くの将兵軍馬をのせることができる木造船として最大の軍船だった。のちに豊臣秀吉の手に渡り、さらに徳川氏の所有となって伊豆下田港におかれていたが、寛永10年(1633)江戸に回航し、この御船蔵に繋留された。延宝7年(1679)の江戸絵図には安宅丸が画かれている。しかし巨艦安宅丸は補修管理が困難で、天和2年(1682)解体された」云々と記されている。

御船蔵を管理し、軍船を操作する御船手奉行の大役に任じられていたのが向井将監家だ。その初代将監忠勝は日本游泳術向井流の始祖と仰がれる人物で、安宅丸は、寛永9年(1633)徳川3代将軍家光が将監忠勝に命じて伊豆の伊東で造らせたとも伝えられる。件の院生が安宅丸クルーズを熱心に誘ってくれた理由も理解できる。なお東京湾クルーズの安宅丸(全長50m・幅11m)は、家光ゆかりの安宅丸ではなくて、岡山藩の御座船「住吉丸」を復元したものらしい。

安宅丸は全長70m、幅33mもあった。家光がこれを天下丸と命名するほどの巨船だった。ちなみに織田信長が琵琶湖に浮かべた百挺立ての鉄甲船は全長55m・幅12mだったといい、また豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)のために九鬼嘉隆に建造させた日本丸は全長30mの百挺立てだったというから、天下丸の巨大さは想像を絶する。しかし、天下丸はその巨体のために1度の航行に10万両という莫大な費用と困難が伴い、家光が乗船したのもたった1度だけだったという。長く隅田川の河口に繋留されたまま留め置かれていたが、維持費も莫大なことから、無用の長物の代名詞ともなり、天和2年(1682)、8代将軍綱吉の命により深川沖で解体された。

ところで、江戸川区谷河内(やごうち)の常谷山 妙泉寺の境内に安宅丸御玉稲荷堂があり、今も安宅丸の船玉(ふなだま・船の守護神)が祀られている。商売繁盛の稲荷神と習合されたこともあって、かつては日本橋の商人や中村座の歌舞伎役者に信仰され、今でも毎年野田醤油から参詣があるようだ。妙泉寺は寛永11年(1634)に現在地に開かれた日蓮宗寺院で、しかし戦災によって資料を失い、安宅丸の船玉が当寺に祀られた経緯も明らかではない。何かの御縁だろうか、安宅丸御玉稲荷の御神影を10数年前に骨董市で入手していたので紹介しておく。なお御船蔵の前には歯神大権現の小祠があった。もう少し蘊蓄をひけらかそうと、持っていたはずの歯神大権現の御神影を昨夜探したが、眠気に負けて見つからなかった。ごめん。                  (歴文・仏教文化史担当・関口静雄)