本学図書館は明治初期の錦絵111点を所蔵し、デジタルアーカイブとして公開しています。
今回はその中の8番目の「上野不忍大競馬ノ圖」を紹介します。
英国を発祥の地とする洋式競馬は、幕末の頃横浜の外国人居留地で行われたのが日本における始まりでした。
明治時代に入ると戸山、三田などにも競馬場が造られましたが、中でも大規模だったのは明治17(1884)年の上野不忍池競馬場でした。
不忍池の埋め立てが行われ、池を周回するかたちで作られた競馬場は周囲約1,500m〈現在の上野動物園を含む大きさ)、檜皮葺2階建ての馬見所(スタンド)を備えていました。総工費約12万円(注1)、これは前年に落成した鹿鳴館の工費18万円に比べても、さして劣るものではありませんでした。
この錦絵は、明治17(1884)年11月1日不忍池で開催された第1回競馬の様子を描いたものです。
当日は明治天皇の行幸があり、参議、大臣、各国公使らが多数出席しました。絵の右手スタンドには、大勢の女官たちに囲まれた天皇の姿があります。(注2)
国旗が掲げられ、池には満艦飾の船が浮かび、空にはパラシュートを付けた人形を仕掛けた花火が打ち上げられ、レースの合間には陸軍音楽隊が音楽を奏でていました。池の周りを出走している馬は、この時点では英国産のサラブレッドではなく、日本馬と雑馬でした。騎手が着用する服は、馬主ごとにデザインが決まっている勝負服で、スタンドから馬主が一目でわかるように配慮されていました。
なお勝者には賞金が支払われましたが、馬券は発売されずギャンブルとしての開催ではありませんでした。
不忍池競馬はいわば国家的行事として開催され、当時の新聞は大々的に報道し、2日後の天長節(11月3日、明治天皇の誕生日))に行われた鹿鳴館での夜会報道をはるかに凌駕するものでした。
なぜこのような大がかりな行事として行われたのでしょうか。競馬の母国英国をはじめとする欧米諸国では、競馬は上流階級の文化とされていました。明治の開国以来、外国から多くの「貴賓」がやってきました。日本は他のアジア諸国とは異なり、西洋風の文化があることを見せなければならず、それは明治国家の最大の悲願であった不平等条約改正に関わるというのが当時の意識だったからです。つまり、洋式競馬は政治と深い関係がありました。
今日では鹿鳴館時代(明治10年代後半)を象徴するものとして、鹿鳴館の舞踏会が歴史の記憶に残されていますが、不忍池競馬は舞踏会と並んで、日本の西洋化をアピールする役割を担っていました。(C.S)
注1:野村ホールディングス・日本経済新聞社は、「明治時代の1円は現在の2万円くらいの価値があった」としています。 (http://manabow.com/zatsugaku/column06/ 参照 2015-12-01)これで試算すると12万円は現在の24億円に相当します。
注2:天皇の行幸については、『明治天皇紀』(第6巻 305頁)に記されています。天皇の隣には皇后らしき人物もいますが、『昭憲皇太后実録』(上巻 332頁)には出席したとの記述はありません。明治政府は当日のイベントを宣伝するため、多くの絵師に描かせていますが、絵師の想像によるところもあったのかもしれません。
<参考文献>
立川健治著 2008 『文明開化に馬券は舞う:日本競馬の誕生』世継書房
日高義継、横田洋一著 1998 『浮世絵明治の競馬』小学館
宮内庁編 1971 『明治天皇紀』第6巻 吉川弘文館
明治神宮監修 2014 『昭憲皇太后実録』上巻 吉川弘文館