〈日文便り〉
皆さんも、日々、大なり小なり「幸せ」を実感しているだろうが
(もし実感が全く無いとしたら、とても生きては行けないはず)、
私の場合は「いま」「ここ」という「現在」であるよりも、
「過去」を思い出して「ああ、あの時は幸せだった」と感じる
「過去形の幸せ」のほうが、はるかに多い。
今月8月6日に、図書館でインターンシップをしている日文の
皆さんと、三省堂書店の神田本店へ、ブックハンティング
(去年までの「選書ツアー」)に出かけたので、三省堂の思い出を
書いてみたい。
上京して大学に入った私の一番の愉しみは、地方に無い大きな書店に
行って、本を眺め、探し、買うことだった。
そして最もお気に入りだったのは、神田神保町の三省堂の本店、
ではなく、すずらん通りをはさんで、その向かいにあるアネックス
(別館)だった。
三省堂書店神田アネックスの外観(『三省堂書店百年史』1981.8刊)
今は、カラオケ館になっていて、風情は全く消えてしまったけれど、
その細長い6階建ての1階正面の一番奥のコーナーには、幻想文学や
異端耽美の文学の黒い棚があり、田舎の書店では見られない本が、
たくさん、それこそ目も眩むばかり並んでいるのを見て、
都会に来たことを実感したものだ。
高校生の時に、泉鏡花と出逢っていた私は、このアネックスの書棚で、
さらに多彩な幻想文学の本を手に取っては、ますます、その世界に
魅了されるようになっていった。
とりわけ忘れ難いのは「薔薇十字社」という出版社の出していた本で、
澁澤龍彦や種村季弘や尾崎翠らを知り、また、久生十蘭という、
鏡花の水脈につながる稀有の作家を知ったのだった。
この出版社は1973年に廃業してしまったが、その当時買った本は、
今でも大切に持っているし、その後も古書店で(少々、値は高いが)、
少しずつ買い蒐めている。
種村季弘『薔薇十字の魔法』(薔薇十字社 1972.6刊)
久生十蘭『黄金遁走曲』(薔薇十字社 1973.5刊)
今思えば、このアネックスの1階の奥にたたずんでいる時の私は、
間違いなく「幸せ」だった。
授業の中で、よく私は「至福の過去」という言葉を使うけれども、
「喪われた過去」は、もう二度と戻らないからこそ「耀き」を増す。
その「耀き」を「恢復」しようとする「衝迫」が文学の本質であり、
泉鏡花の文学は、その典型だといってよい。
ネットで「薔薇十字社」のことを調べると、やはり愛好者も多く、
いろいろなサイトがあり、中に、当時刊行案内されながら出なかった
「幻の未刊本」のリストには、
三島由紀夫監修『泉鏡花戯曲全集』(全3巻)
というのがあった。
もし刊行されていれば、「天守物語」を高く評価し、「山吹」の上演を
望んでいた三島の―卓越した劇作家でもあった彼の―「解説」を
読めたはずだが、残念ながら、これも「幻」となった。
しかし、その内容に思いをめぐらせる愉しみは、今でも確かに残っている。
その「思い」において、喪われたものは、いつでも「甦る」のだ。
「過去」を振り返り、回想することは、後ろ向きの消極的な行為では
決して無い、と私が授業で繰り返し話すのは、この意味においてである。
以上のことを思い出させてくれた、図書館のブックハンティングの企画に
感謝したい。
(吉田昌志)