学校で学ぶということ

<日文便り>

コロナ禍により大学では昨年からオンライン授業対応を余儀なくされ、
それに伴い授業ごとに毎回自宅学習のための課題が課せられるようになった。
その結果、当然のことながら学生の学習時間は増えたという。
日本の大学生は勉強しない、と言われて久しい。
それがコロナ以降毎日、授業ごとに課せられる課題のために、データ上学生の学習時間が増えた。
このデータは学生の学習習慣が身についたというよい傾向であると分析され、
今後もこの方向性を推し進めていこう、という話が聞かれる。
私自身は、これがよい傾向であるとういうことにも、
そしてそもそも学習時間が伸びたということ自体にも懐疑的である。
自分の体感と違うのだ。
体感としては、学生の処理量は増えたかもしれないが、書いてくるものの質は下がっている。
以前より勉強が「できていない」。
体感(勉強ができなくなっている)とデータ(勉強するようになった)の間にズレがあるのなら、
そこで考えなければいけないと思っている。
データがこうだから、と言われて鵜呑みにしていたら、
学生に「自分で考えなさい」なんて言えなくなる。

今年度前期は、社会情勢の目まぐるしい変化から、
対面→オンライン→対面→オンラインと授業形式の変更も繰り返された。
そんな、対面とオンラインのはざまで、見えてきたことがある。
6月後半、学期終盤に差し掛かって数週間だけ、対面が再開になった頃。久々に学内に学生がいる。
今までなら当然のことだが、もはやそれは珍しい光景。
学生たちの囀りが自然と耳の中に入ってくるが、
そこでようやく、今まで気づいていなかったことに気づいた。
学生同士のおしゃべりで、授業の話をよくしているのである。
久しぶりに、新鮮な気持ちで学生を観察してみたら、
これがもう、意外なくらい勉強のことが話題に出る。
あの先生の言ってることがわけわかんなかった、それってそういえばあの先生が言ってた、
そういえばこないだの授業で・・・教員の噂話だったり、
話の流れのちょっとした連想で出てきた話であったり、
とっかかりはささやかではあるが、あらゆる角度で授業の話、研究分野の話が出てくる。
そして共感しあったり、考えを述べあったり。
本当にあらためて、うちの学生たちは授業の話してるんだなあ、と思った。
よくよく考えたら、学校に通う学生たちの共通の話題として、
授業の話って、大きな位置を占めるのだ。
そして、そういうおしゃべりの中での頭の使い方って、
設定された課題を解くというようなものではなく、自分で咀嚼して、自分にとっての整理をして、
目の前の相手に自分の意志で伝えようとして、出力しているのだ。
それって、「今からディスカッションの時間を設けます。はい、ディスカッションしてください」
なんていう形でのアクティブなディスカッションとやらとは比べ物にならない頭の回転のさせ方をしている。
ご立派なゴールをめざし、望まれている深い所へ行く、
というのなら設定された課題を解いた方がいいかもしれない。
だが一方で、浅くてもいいから、自分の脳みそのネットワークに学んだことをちゃんと取り込んで、
自分用に位置付ける、という過程は、こういうおしゃべりのほうが圧倒的に効果的なのではないか。
本があって情報検索もできるのに、みんなで集まって同じペースで人の話を聞く、
なんていう一見非効率の権化みたいな教育システムが結局なくならないのは、
「みんなで勉強する」ということの効果は代えがたいものがあることを、
われわれがデータ化の数値を叩きつけられる以前に、
そしてデータ化の数値が違う結論を示していてもなお、本能的に知っているからではないか。
しかもこのおしゃべりの瞬間に、「勉強している」なんていう自覚はない。
こんなに勉強になっているのに。
学校でのおしゃべりがなくなったぶん、学生の授業時間はオンラインで「減っている」のだ。
質の面のみならず、おそらく量的にも。
「あなたの1日の学習時間はどのくらいですか」という質問項目があるとして、
このおしゃべりの時間を計上しようとはまず思わない。
机に向って勉強らしい勉強をしている時間のみを「勉強時間」と意識する。
結果、オンライン課題の時間は新たに計上され、
日々ちょっとした瞬間瞬間に友達とおしゃべりしながらの勉強時間はゼロになっても、
もともと計上されていないのだから何の変化もない。
結果「学習時間が増えた」というデータになる。こういうことなんじゃないのか。
今の世の中、可視化せよ、数値目標を示せ、これは何の役に立つのか、とさんざん言われる。
そこで「この分野は数値化できない部分があって・・・」なんて言おうものなら、
変わろうとしない、旧態に閉じこもろうとするような者の非論理的な言い訳に思われる。
でもあらためて、数値化できる部分は本当に限られるし、
数値化できる部分に限っても、無前提に正確で客観的だなんていうのは幻想である。
どういう認識でどう数えるか次第で、「学習時間」一つ取ったって結果が変わりうる。
だからこそ、やれ数値化、やれ可視化と言われている時代にこそ、
与えられた尺度をただ適用するんじゃなくて、「考え」なければならないと思っている。
数値化したら科学的で客観的に見えるけど、その「客観的に見えること」を隠れ蓑に、
考えることを怠けているだけになったりしてはいないか。
そもそも、今の時点で数値化できる要素だけを集積したら、
目標にたどり着けるなんていう考え自体、正直傲慢だと思っている。
人間が考えてすぐ奇麗にそろえられるような要素に分割できるほど、
この世界は簡単なものではないだろう。
世界に対し、せめてその程度の敬意は持っているつもりだ。
医者に行けばいろんな数値が出てくるが、
それにしたって「現時点では使える尺度がここまでで、人体なんて未知の部分がいっぱいある」
という自覚のもとに、その数値は使われているはず。
もちろん根拠もない思い付きや旧習だらけでは困る。
でも有用な客観的な尺度があるとして、それに対し「これを信じていればもう考えなくていいから、今後はここでいい数値を出すことを目指します」と思うか、「本質はブラックボックスだが、現状、この側面は使えます」という認識でいくかでは、同じ尺度でも意味合いとその先がかなり変わってくる。だからこそ、これからも考える。
学生も、こちらが教えたことがそのままできるようになるのではなく、
こちらが考えられなかったことを考えられるようになってほしい。
この学科は、それを目指している。
今の世の中は「見えない敵との戦い」とよく表現される。
だからこそ可視化したい、という気持ちに傾くのは一方でわかる。
しかし、見えないものと戦うときに、見える物だけで判断してうまくいくんだろうか。
「人間文化」「文学」という看板を掲げている以上、
今ある/与えられた物差しだけで見るのではなく、
見えないものを見ようとする姿勢を貫き続けたい。
そこにこそ、この学科の、この時代における意義があるんだと思っている(ついでながら、「文学なんかやって”何の役に立つのか”」という問い自体が、特定の時代と価値観に立った問いであることをぜひ考えてほしい。問いをそのまま受け入れて「こういう役に立ちます」なんていう詭弁を弄する以前に「役に立つのか」という問いの出どころの考え方自体を疑ってほしい)。
規定のモノを、既定の方法で測る技術は、一人でも学習できる。
じゃあ、学校でしか身につけられないものって・・・?「学習」と「学校」は違う。
この先どのような社会になり、大学がどんな形になるとしても、
学生に「学習」を提供して終わりではなく、きちんと「学校」を提供できる存在でありたい。
いま、この状況でもそれがちゃんとできてます、なんてとても言える気はしない。
でも、できてなければいけないことだし、できるようにならなきゃ。
そのために、考え続けるしかない。

(須永哲矢)