声が、言葉が響くとき、そこに物語が生まれる~ みすゞとぼくらと~

<日文便り>

 高校教師をしていた私にとって「忘れられないこと」、その中の一つが、山口農業高校での日々。
山口県屈指の教育困難校といわれた山農でしたが、生徒の制作したラジオドラマ「さよならトン吉」がTVで取り上げられたことを契機に、上郷小学校との交流授業がスタート、農高生が先生となり、小学生に教える、総合学習が始まったのです。そんなときです。国語の授業の中で、俊介君がいいました。「小学2年の優君が僕に『お兄ちゃん、ぼくらぁね、毎日一つずつ、みすゞさんの詩を、みんなで読むんよ。ぼくね、そんとき、よぉーく思い出す、お兄ちゃんたちに教えてもらった、命のこと。』」その話を聞いた和君「俺、仙崎出身やけぇ、小さい時からいっつも、詩、よんじょった、先生、みすゞの詩で、なんか、創ろうやぁ」そこで、始めたのが、「みすゞとぼくらと」という活動でした。
一人一人が、お気に入りのみすゞの詩を紹介するという台本制作の試みですが、この活動の一番のねらいは、みすゞの詩に触発された「私の物語」を語ることでした。

                  「みすゞとぼくらと」

NAR 金子みすゞは明治36年山口県仙崎に生まれました。山口に生まれた私達は、小さなころか
    ら、いろいろなところでみすゞの詩に出会ってきました。そのみすゞとの出会いの中で私達
    のまわりにたくさんの命が輝いていることに気づいていったのです。

SE (波の音)

お魚  海の魚はかわいそう お米は人につくられる 牛は牧場で飼われてる
    鯉はお池で麩をもらう けれども海のお魚は なんにも世話にならないし
    いたずら一つしないのに こうして私に食べられる
    ほんとに魚はかわいそう

遠藤 農高に入って始めてニワトリのヒナを手にしたとき、僕は小さくてふわふわなヒヨコが可愛く
   て、名前を付け、一生懸命育てました。大きくなり卵を産むようになると、うれしくて、その
   卵をなでまわしたりしました。やがて、恐ろしい日が、前から話には聞いていましたが、ニワ
   トリの解体をする日がきたのです。僕は泣きそうになりながら可愛がっていたニワトリの首に
   包丁をちかづけました、その時です。ニワトリは自分で眼を閉じたんです。さばいたニワトリ
   を焼いてたべる時、僕は涙ぐみながらも、心の底から「いただきます」と手をあわせました。

BGM (紅花)

わらい それはきれいな薔薇いろで 芥子つぶよりかちいさくて
    こぼれて土に落ちたとき ぱっと花火がはじけたように
    おおきな花がひらくのよ

    もしも泪がこぼれるように こんな笑いがこぼれたら
    どんなにどんなに どんなに きれいでしょう

中村 ある日、僕は先輩に誘われて日赤にある緩和ケア病棟にボランティアに行くようになりました。
   緩和ケアとは、静かに死を迎える人をケアするところです。ぼくらの作ったシクラメンの鉢を持
   っていくと、患者さん達がみんな笑顔で迎えてくれるんです。ある日いつもは車椅子に乗って花
   を見ているだけのおばあさんが、その日は花に話しかけていました。「ただ黙って咲いとる花は
   えらいのー」にっこり笑うそのおばあさんは、白のシクラメンが一番好きだと言いました。
   次の週、おばあさんは亡くなってしまいました。白のシクラメンを見るたび、僕は、おばあさん
   の、あの笑顔を思い出すんです。

BGM (ハーモニカ演奏  この道)
星とたんぽぽ 青いお空の底ふかく 海の小石のそのように
       夜がくるまで沈んでる 昼のお星は眼に見えぬ
       見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ

柴田 僕は高2の春、母を亡くしました。哀しみにくれ、何もかもがどうでもいいように感じられてい
   た、そんなころ、僕は、真昼の星をみたんです。青空の中にぽつんと一つ、それは白く輝いてい
   ました。思いがけず突然、僕の口から「かあさん」って言葉がでていました。真昼の星を見たそ
   の日から、僕はよく空を見上げて「見えないけれど あるんだよ」とつぶやく自分に気づくこと
   があるんです。

F.I (オカリナ ムーンライト)
NAR みすゞの詩は、私達の周りにたくさんの不思議や感動があふれていることをそっと教えてくれるのです。
F.O

 発表の後、生徒達はこう語り始めました。「自分の思いを言葉で表現することは、とても難しいことだけど、楽しいことだとわかりました。難しいと思ったのは、自分の思いとぴったりする言葉が、なかなか見つからなかったからです。今までは、思いついたことを、ただ、言葉にするという感じでしたが、聞いてくれる相手の人にわかるように、私が今伝えたい気持ちをちゃんと届けるために、まず自分の心の中に深く入って、自分のほんとの気持ちにじっと耳を傾けて、それを、なんとか言葉にしていかなくちゃいけないということが、からだでわかった気がします」「みんなの話を聞いてたら、何度も涙がでそうになりました。きっと思い出すのが辛かったこと、それを思い出して語ってくれた友達に感動しました」
 私が赴任した1996年「農業高校の生徒とは目を合わせてはいけません」と、地域の小学生たちからも忌避されてきた生徒達が、今は先生。彼らに届いた小学1年生からの手紙を私は読みました。
 「おにいさんや、おねえさんが、やさしくおしえてくれたので、ぼくは、いきもののことがすきになりました。ぼくもブタもニワトリも、みんな、おなじいのちをもってるんだよと、おしえてくれてありがとうございました」「わたしは、ひよこがおおきくなって、にわとりになって、たまごをうんだとき、なみだがでそうでした。おおきくなるために、おにいさんやおねえさんが、まいにち、いっしょうけんめいおせわしていてくれたので、たまごがうめたんだなとおもって、なんども、おにいさんや、おねえさんに、ありがとうといいたいです」。
 小学生たちからの手紙を聞きながら、生徒達は泣きました。「俺、生まれて初めて、ありがとうって言われた」そう、つぶやいた秀君の声に、仲間たちは大きくうなづきました。
 学校という空間の中で、「今―ここ」に生きる生徒達が、「わたし」について考え始めるとき、それは様々な「語り」となって現れます。そして、その「語り」は、それを受け止めてくれる他者の存在をせつないまでに希求する、他者へのよびかけの声でもあったのです。生徒達は言いました。「生きることは表現すること」だと。辛い現実にぶつかったとき、どうにかして、その現実を受け入れようとするとき、私たちは、生きるために「物語」をこしらえます。うれしいことは、うんと大きく、かなしいことは、ほんの小さく変えながら。「生きることは哀しい」農業高校の生徒のつぶやきは、生きることのさびしさの根源を白日のもとにさらしてみせました。それでも、だれもが「物語」を紡いでいくしかないことも、彼らは、彼女らは、私に教えてくれたのです。
 今日も私は、語り続けていきたいと思うのです、どこかで生まれる「小さな物語」を、あの、千夜一夜物語のシェヘラザードのように。

(青木幸子)