卒業生 観世流シテ方能楽師 雲龍櫻子
「台本研究の面白さ」&先着10組公演チケットご招待!
こんにちは。日文の卒業生、観世流シテ方能楽師の雲龍櫻子です。「シテ方」というのは、「能・狂言」の「能」の分野で、主役を担う役職のことをいいます。「室町文化の中、観阿弥・世阿弥父子が大成した芸能」である能楽は、男性役者のみで演じられてきた歴史がありますが、現在は女性の能楽師も多く活躍しています。
写真 舞囃子「春日龍神」・写真森田拾史郎
さて、7月6日(木)国立能楽堂にて、私の所属する久習會という会で能の公演があります。演目は「藤」という作品で、富山県を舞台にした藤の妖精の物語。狂言は「佐渡狐」(野村萬斎)です。能と狂言、北陸の風情を楽しんでもらう番組になっています。
素敵なプレゼント企画(日文学科受験生(高校2年・1年も対象)とその保護者様・先着10組公演ご招待)もありますので、ぜひ最後まで読んでください。
旅僧が富山県多胡の浦の藤の名所で、藤花がしおれてしまう歌を詠む。そこに里の女が現れ「咲き香る藤の美しさを詠めばよいものを、なんと心ない旅人か」と咎める。かつて大伴家持(『万葉集』編者)が越中守(富山県知事)だった頃、彼らが雅やかに遊覧して藤の花を愛でた歌が詠みあげられ、彼女は「紫色こそが私そのもの」と言葉を残し消える。
夜更けになり旅僧がまどろんでいると、乙女は藤の精の姿となって登場、四季折々の草花の移ろいを示し華麗に舞を舞う。
台本中に何回も「紫」という言葉が出てきます。なんて、自己アピールの強い花の精なのかしら…と愛嬌を感じます。
この作品は、観世流とその他の流派では謡本(台本)の細部が異なります。あらすじの主流は同じですが、台本中で扱われる和歌や役者のセリフが異なることによって、藤の花の妖精のキャラクター性や世界観に変化があります。
なぜ、観世流だけ台本が異なるのかというと、江戸時代中期(1750年代頃)に活躍した観世元章(15世宗家)という人物がキーパーソンになります。彼は『万葉集』や『古事記』の引用を好み、賀茂真淵や田安宗武のアドバイスを受けて、『明和改正謡本』という謡本を明和2(1765)年に刊行しました。この謡本は、元章の「古典大好き!」という気持ちが凝縮されたものでした。この古典趣味な改訂は、門弟にはとても不評で(「せっかく覚えたのに」という理由)、彼の没後に多くの作品が復旧されましたが、後世に強い影響を与えた改訂もあります。能「藤」がその一つの例です。
「縄磨の歌」とは、『万葉集』4200番歌「多祜の浦の底さへにほふ藤波を插頭して行かむ見ぬ人のため(意訳)多祜の浦の底まで美しく輝く藤波を、髪に挿して行こう。この景色を見ない人のために。」作者(内蔵忌寸縄磨)を示します。この歌は後に『和漢朗詠集』などにも採られ、後世の人々に愛唱されてきた歌ですが、「磨」という名前から万葉歌人「柿本人麿」の作ではないか、縄磨の上司である大伴家持の作でないか、という誤解も当時は流布していました。古文マニアの元章はどうしてもそれが受け入れがたく、シテ(主役)に「縄磨の歌」というセリフを挿入したのです。
このセリフ挿入により、観世流の里の乙女(藤の花の妖精の仮姿)は、他流よりもおしゃべり好きなキャラクター性になり、藤の花の妖精として現れる後半の場面は「美しいムラサキ(・・・・)な私をみて」という愛らしいファンタジーな世界観になっています。
いかがでしょうか。おもしろいでしょう?
私も、里の女のようにこのブログでたくさんお話をしていますね。
このような台本の比較研究の基礎は、日文のゼミでその研究方法や論理の組み立て方を学びました。在学中は、能・狂言のゼミの山本晶子教授のもとで「藍染川」という作品における「能」と「絵巻物」の比較を行いました。その学びが、今、役者として作品理解する地盤になっているのだと思います。
最後までお読みくださりありがとうございました。
ささやかではありますが、日文の受験を志す受験生のみなさまに、7月6日(木)の御観覧券をプレゼントいたします。ぜひ伝統芸能をご鑑賞ください。
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