こんにちは。日文の卒業生、観世流シテ方能楽師の雲龍櫻子です。「シテ方」というのは、「能・狂言」の「能」の分野で、主役を担う役職のことをいいます。「室町文化の中、観阿弥・世阿弥父子が大成した芸能」である能楽は、男性役者のみで演じられてきた歴史がありますが、現在は女性の能楽師も多く活躍しています。
12月5日(火)宝生能楽堂にて、私の所属する能の会「久習會」で、源義経をめぐる物語「船弁慶」という演目の公演があります。前半は義経の恋人白拍子「静御前」との別れ、後半は義経に討たれた武将「平知盛」の怨霊との対決が描かれ、「静御前」と「平知盛」をシテ(主役)一人で二役を演じるのが醍醐味です。
プレゼント企画(日文学科受験生(高校卒業生・高校2年・1年も対象)とその保護者様・先着10組公演ご招待)もありますので、ぜひ最後まで読んでください。
さて、みなさんは「初心」という言葉を決意表明などで用いたことはありますか。「初心」は、世阿弥の芸論『風姿花伝』『花鏡』にある「初心忘るべからず」に由来します。この言葉は、世間一般的に「何かを始めた時の初々しい純粋な気持ちを生涯忘れない」という意で使われることが多いですが、世阿弥の主張した「初心」には異なる意があります。
『花鏡』より
「初心へ返るは、能の下がるところなるべし。」
(意訳:初心へ返ったら、能の芸力は降下してしまう)
「初心」は「忘れてはいけないけれども、返ってはいけない」。これはどういうことなのでしょう。そもそも「初心」とはどのようなものなのでしょう。世阿弥の示す「初心」は、「自分自身の「最新」の心の動きや現状を、客観的に受け止め、その在り方に向き合うべきもの」。つまり「初心忘るべからず」とは、「現在この時の己の心を忘れるな・目をそらすな」という意なのです。『花鏡』では、自身の「初心」を、慢心によって見落としてしまったり、芳しくない現状を受け入れられず目を背けてしまったりすると、芸は下がると指摘しています。過去に掲げた1つの目標を保持したり、固執したりするのではなく、「常」に自分自身を連続的に見失わずにいなさいということなのです。
世阿弥の生きた室町時代は、封建的身分社会において芸能者の地位は低いもので、時代の寵児であった彼も、権力者の意向によって不遇な晩年を過ごしました。「他に縛りがあっても、自分の「今の心」は自分が責任を持つ、それこそが真の自由であり可能性を広げていくものだ」という強いメッセージ性を600年以上の時を経て受け止めることができます。
「初心忘るべからず」という言葉は、今を生きる私たちに指針を与えてくれると思います。自分の信念や「私はこうありたい(自己実現)」を追究するならば、自分の至らなさや弱さも認めなくてはいけませんし、ネガティブなものごとと折り合いをつけなくてはいけない悔しいことも多々あります。
そのような時こそ「初心を忘れず、けして返らず」自分と対峙することが必要なのだと考えています。
最後までお読みくださりありがとうございました。
ささやかではありますが、日文の受験を志す受験生のみなさまに、12月5日(火)の御観覧券をプレゼントいたします。ぜひ伝統芸能をご鑑賞ください。
プレゼント企画(日文学科受験生(高校卒業生・高校2年・1年も対象)とその保護者様・先着10組公演ご招待)へのお申し込みは、ここをクリックしてください。
雲龍櫻子
写真:森田拾史郎 第37回久習會公演 能「藤」(藤花の精)