安宅丸(あたけまる) [2012年07月11日(水)]

教育実習校へ御挨拶のために千葉県稲毛まで行った帰り、総武線車中で御婦人の一団が、「今日は御座船に乗るのだ。天気もいいし、隅田川からでも東京湾からでもスカイツリーがよく見えるに相違ない。料理も豪華だ」などと賑やかに語らっていた。

御座船といえば、日本游泳術(いわゆる古式泳法)を研究していた大学院生が、「御座船安宅丸で東京湾クルーズしましょうよ」と誘ってくれたことがあったが、あいにくその日は白浜海岸の浄土宗寺院に文書拝見の約束があって参加できなかったのを残念に思っていた。

深川安宅町という町名があった。江東区新大橋1丁目あたりで、安宅丸はじめ幕府の軍船を格納する御船蔵があった。面積4890坪の広さに大小14の船蔵が並んでいたと伝える。「安宅丸繋留地跡」の石碑が建っていて、「安宅丸は北条氏が造船したもので、その動力は400人の水夫が2百本のオールを交代で漕ぎ、米4千石(1万俵)と多くの将兵軍馬をのせることができる木造船として最大の軍船だった。のちに豊臣秀吉の手に渡り、さらに徳川氏の所有となって伊豆下田港におかれていたが、寛永10年(1633)江戸に回航し、この御船蔵に繋留された。延宝7年(1679)の江戸絵図には安宅丸が画かれている。しかし巨艦安宅丸は補修管理が困難で、天和2年(1682)解体された」云々と記されている。

御船蔵を管理し、軍船を操作する御船手奉行の大役に任じられていたのが向井将監家だ。その初代将監忠勝は日本游泳術向井流の始祖と仰がれる人物で、安宅丸は、寛永9年(1633)徳川3代将軍家光が将監忠勝に命じて伊豆の伊東で造らせたとも伝えられる。件の院生が安宅丸クルーズを熱心に誘ってくれた理由も理解できる。なお東京湾クルーズの安宅丸(全長50m・幅11m)は、家光ゆかりの安宅丸ではなくて、岡山藩の御座船「住吉丸」を復元したものらしい。

安宅丸は全長70m、幅33mもあった。家光がこれを天下丸と命名するほどの巨船だった。ちなみに織田信長が琵琶湖に浮かべた百挺立ての鉄甲船は全長55m・幅12mだったといい、また豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)のために九鬼嘉隆に建造させた日本丸は全長30mの百挺立てだったというから、天下丸の巨大さは想像を絶する。しかし、天下丸はその巨体のために1度の航行に10万両という莫大な費用と困難が伴い、家光が乗船したのもたった1度だけだったという。長く隅田川の河口に繋留されたまま留め置かれていたが、維持費も莫大なことから、無用の長物の代名詞ともなり、天和2年(1682)、8代将軍綱吉の命により深川沖で解体された。

ところで、江戸川区谷河内(やごうち)の常谷山 妙泉寺の境内に安宅丸御玉稲荷堂があり、今も安宅丸の船玉(ふなだま・船の守護神)が祀られている。商売繁盛の稲荷神と習合されたこともあって、かつては日本橋の商人や中村座の歌舞伎役者に信仰され、今でも毎年野田醤油から参詣があるようだ。妙泉寺は寛永11年(1634)に現在地に開かれた日蓮宗寺院で、しかし戦災によって資料を失い、安宅丸の船玉が当寺に祀られた経緯も明らかではない。何かの御縁だろうか、安宅丸御玉稲荷の御神影を10数年前に骨董市で入手していたので紹介しておく。なお御船蔵の前には歯神大権現の小祠があった。もう少し蘊蓄をひけらかそうと、持っていたはずの歯神大権現の御神影を昨夜探したが、眠気に負けて見つからなかった。ごめん。                  (歴文・仏教文化史担当・関口静雄)