T先生の遺していったもの [2014年04月15日(火)]

こんにちは。西洋史の小野寺です。
新学期早々暗い話で申し訳ありませんが、先月末、私はある恩師を失いました。
T先生という、高校時代の世界史の先生です。
48歳という若さでした。
学生を引率していた韓国で突然、心不全で倒れたということでした。

T先生が25歳の若手教員として颯爽とわが校に赴任してきたのは、私が高校一年のとき。
とにかく若かったので、今考えても失礼な話ですが、あまり先生という感じがせず、どちらかというと兄貴分みたいな感じで、(授業も受けていないのに)暇を見つけては教員室に遊びに行っては話し込んでいました(今思えば、そうやって私は先生の貴重な研究時間を奪っていたわけです・・・)。
回りの生徒も、(大変失礼な話ですが)「おいT!」みたいな感じで、「先生」とすら呼んでいなかった記憶があります(私は一応「T先生!」って言ってましたよ!)。まあ、それくらい親しみやすい先生だったのです。
T先生が大学院でドイツ史を勉強していたことくらいは知っていましたが、そんなわけで、あまり深い研究の話をすることもなく、「いいお兄ちゃん」みたいな感じで、高校三年間は過ごしていました(一浪して大学に入ったとき、先生のご自宅でお寿司をごちそうになりました!)。

大学に入り、さらに大学院に進んだ頃から、T先生が研究を進められているという話をちょくちょく耳にするようになりました。
「世界史教育」に関する研究です。
世界各国ではどのような世界史教育を行っているのか。
今後日本における世界史教育はどのようなものであるべきか。
そうした問題について、T先生は高校での仕事の傍ら、着々と研究を進めていたのでした。

T先生が熱く語っていたことの一つに、世界史の「暗記偏重」という問題があります。
「世界史はとにかく覚えることが多くて大変!」→「だから世界史嫌い」というコースをたどったみなさんも、少なくないのではないでしょうか。
それを裏付けるデータがあります。
1953年、高校世界史教科書に載っていた事項は、1,549項目でした。
しかし2003年の高校世界史教科書では、3,379項目。つまり覚える項目が、50年前の倍以上になっているのです。
もちろんこれは、教科書執筆者が皆さんに嫌がらせをするためではなくて、ヨーロッパやアメリカのようなメジャーな国々だけでなく、アフリカとか南アメリカとかオセアニアとか、そういう国々のこともきちんとおさえて欲しい、という「善意」ゆえなのですが、とにかく記憶しなければいけない量が半端でなく多いのは事実でしょう。

そしてT先生がいつも強調していたのが、重要語句をゴシック体で強調する、日本の教科書のスタイル。
「さあ、覚えなさい!」とばかりに、次から次へと語句が太字で強調され、それにひたすらマーカーを引いて覚える学生。
データがたくさん詰め込まれる一方で、全体の流れが見えにくく、とにかく教科書は読んでいて「つまらない」。これでは世界史を好きになれというのが無理というものです。

そこでT先生が最近ずっと模索していたのが、「考える世界史」でした。
ただ事項を暗記するのではなく、「なぜ」「どのように」ということを、自分の頭を使って考える、そういう世界史学習です。
たとえば、複数の史料を自分なりに解釈する。
あるいは、絵画や風刺画、ポスターといったもののメッセージを読み解く。
もしくは、当たり前のように暗記していた言葉の意味について、もう一度深く考えてみる。
そうすることで、「正解」は決して一つだけではないということ、それを読み解く側の問いかけによって歴史像は大きく変わりうることがわかります。そして何より、その方がやってて面白い。

そしてもう一つT先生が言っていたのは、歴史を自分の問題として考えて欲しい、ということでした。
世界史(日本史もですが)はどうしても、有名な政治家や軍人、科学者などが中心の歴史像になりやすいので、自分とは関係のないエピソードとして理解してしまいがちです。
しかしそれで本当に良いのか。どうやったら「良く」生きられるのかという問題と、世界史といういままでの人びとの営みを切り離してしまってよいのか。
たとえば、名もなき人びとが当時どのような生活をしていたのか、ということを考えることで、歴史をよりリアルなものとして捉えられるのではないか。
そんな話をT先生としたことがあります。

先生が亡くなってからまだ半月余り。
先生の死を、私はまだ受け止め切れていません。
しかしいつまで嘆いていても仕方ありませんし、それは先生の望むところでもないでしょう。
今学期から私も、ささやかではありますが「考える世界史」をテーマに、ある講義を進めています。
金曜2限の「原典講読」がそれです。
前期は、アンネ・フランクの『アンネの日記』をどうやって小学校高学年に教えるか、ということで、その教員向け指導書(英語)を学生と一緒に読み解いています。そして後期は、アメリカの高校世界史教科書を読み進めながら、日本の世界史教育との違いについて、体感していきたいと考えています。

自分から歴史に向かって問いかけるというのは、言うは易しで、実際にはいろいろな背景知識がなければ、意味ある問いを投げかけることはできません。事前準備もかなり必要です。
いくら教員の側が工夫を凝らしても、生徒の側は今度は「考え方」まで丸暗記して、良い点を取ろうとするかもしれない。知識を問うタイプの問題とは違って、「考える世界史」は評価の仕方が非常に難しいのです。どんな環境でもできる授業形式ではないかもしれない。
それでも、世界史教育が今のような暗記偏重のままでいいはずがありません。
どうしたら現状を少しでも良い方向に変えられるのか。それを考えることが、T先生が私たちに遺した「宿題」だと思って、私もささやかながらその一端を担っていきたいと思います。