【ヨーロッパ歴史演習】アウシュヴィッツの不気味な「美しさ」(歴文2年Yさん)

私はポーランド、ドイツ、オランダの三か国をめぐり「負の遺産」について学ぶ、ヨーロッパ歴史演習Bに参加しました。

今回研修に参加した理由は「現場」に実際に赴くという内容に強く惹かれたからです。現場に足を運ぶことで、史料と向き合っているだけではわからない生々しい感覚に触れたいという期待がありました。

以下、12日間の日程の中で特に印象深かったアウシュビッツ・ビルケナウおよびアンネの家の見学について書くことにします。

アウシュビッツ強制収容所にまず足を踏み入れてみて驚いたことは、敷地内には木々が植えられており、また建物の外観が美しいということです。ここで百万を超える人びとが死を迎えたということがその美しさからはまるで想像が出来ず、かえって不気味で恐ろしさを覚えました。
この「美しさが不気味で恐ろしい」という感覚を私はアウシュビッツとビルケナウの見学中に何度も感じることになります。
ビルケナウ第二収容所にある、「死の池」がその一つです。

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死の池は、ここがそうだ、と説明されなければ通り過ぎてしまいそうな、さほど広くもないただの美しい池に見えます。
しかし、この池は収容されていた人々の遺体を焼却した灰を投棄していた場所なのです。その光景を目にしたとき、私は何もいうことが出来ませんでした。ただ凪いでいる死の池に言い知れぬ悲しさを感じたことを強く覚えています。
と同時に、何もないように見える池に遺灰が捨てられているのだから、一見変哲のない地面や道でもそこで亡くなった人が居たかもしれないことに気が付き、大きな衝撃を受けました。

衝撃的な光景を至る所で見ましたが、一番ショッキングだったのはアウシュビッツで見たとある展示でした。
それは、ユダヤ人が収容所に連行されてきたときに没収された鞄や靴、切り落とされた女性の髪などが圧倒的な数で展示されているものでした。
その異様な光景に私は思わず少し気分が悪くなりました。
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見るものを圧倒する膨大な量が展示されていますが、これは勿論ほんの一部に過ぎず、ナチスが処分し切れなかったものが偶然残ったのだといいます。目の前にあるこれらの所有者で、収容所生活を生き延びられたひとは果たしてどれだけ居たのでしょうか。

そして更に異様だったのは、ナチス側はそれらの押収した物をしっかりと書面で記録にしているという点です。
この書類には、何をどれくらいの量押収したのかがリストアップされています。

私は原典講読の講義でこの書面に触れたことがありました。
その時は、「この書類を見て何か感じることはないか」と問われても単なる物のリストにしか見えず、完全にナチス側の視点でしかそれを捉えることが出来ていませんでした。
けれどもこの展示を見た後では、ナチスにとってはただの物であっても、それらには持ち主がちゃんといてそれは生きた人間であったということを強く思わずにはいられませんでした。
当時のナチス側の人間がどのような感情でこの書類を作ったかは分かりませんが、そこには対人間という意識はほとんどなかったのではないでしょうか。
感情がそっくり抜け落ちたような書面の無機質な内容が、当時のユダヤ人に対するナチスの扱いを色濃く反映していました。

このユダヤ人をまるで人とも思わないという扱いは、至る所に反映されていました。
例えば、トイレは一日に二回しか許されていなかったということや、簡素でベッドと呼ぶにはあまりにお粗末な設備など、収容所の環境は劣悪を極めていました。収容所に人々を輸送するための列車でも、ユダヤ人は家畜以下の扱いをされていました(写真はビルケナウの囚人用トイレ)。

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ナチスはヨーロッパの各地からユダヤ人を強制収容所に鉄道で輸送しました。
有名なアンネ・フランクはオランダのアムステルダムから移送され、アウシュビッツに収容されていました。
私達も今回、実際にクラクフ-アムステルダム間を、日数をかけたバスやICEによっての移動でではありますが経験しました。
条件があまりにも異なるので単純な比較をすることは勿論できませんが、現代の充実した交通手段を用いてもやはり肉体的疲労は少なくありませんでした。
移動日には車中で疲れて眠っている学生も多く見られましたが、当時のユダヤ人たちには肉体的疲労だけでなく精神的な疲労が相当あったことが考えられます。
貨物列車の狭い車内に、すし詰め状態で目的地も分らぬままに途方もない距離を移動させられるということがどれだけの苦痛に満ちたものだったのか私には分かりません。
長い移動の中で、命を落とした人が少なからず居たことが容易に想像出来てしまうことがとても悲しく、この輸送の時点からナチスによるユダヤ人への人間性の剥奪が始まっていたのだと感じました。

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次に、オランダのアムステルダムにあるアンネの家についてです。
私は前述の原典講読の中でアンネの日記を実際に読みました。
日記はアンネが逮捕される前で終わっており、その後の収容所での出来事は書かれていません。
しかし、アンネの家を訪れたのは日程の9日目であり、それ以前に彼女が送られたアウシュビッツを見学していた為、その後彼女が迎えた結末が分かってしまうだけにアンネの家を見たとき私は非常に憂鬱でした。
それでも、アンネが生きた場所をしっかりと確かめなければ、と気持ちを切り替えて見学を行いました。

ここでも、やはり本を読むだけではわからなかったことがありました。
例えば、隠れ家への階段を隠す本棚ですが、一応隠されてはいるものの見る人が見たらすぐに何かあると分かるような作りでした。
さらに、隠れ家は街の中心部にあり、建物が密集しているため、近所の人たちはアンネたちの協力者が食料や本を定期的に持ち込んでいる様子には気が付いていただろうな、と感じました。
アンネの日記では、隠れ家生活に慣れるにつれアンネたちが音に気を使わなくなる、といった気の緩みが生じ出す様子が書かれていました。そしてその緩みは注意すれば、決して外部から見つけられないものではなかったはずです。
それを見逃す人もいたでしょうが、見逃さない人もいたでしょう。
歴史に「もしも」を言うべきではありませんが、アンネたちを実際に密告した人が仮に居なかったとしても、お金欲しさに彼女たちが他の人に密告されていた可能性は低くはないな、と考えてしまいました。

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さて、アンネの家の内部についてですが、隠れ家というにしては想像よりも広さがありましたが、それでもやはり8人が暮らすには窮屈であるという印象を受けました。
殆んど娯楽もなく、外へ出ることが絶対に出来ない状況で同じ顔ぶれと毎日毎日顔を突き合わせるということがアンネは勿論、隠れ家の住人たちにとっても大きなストレスであったことが容易に想像できます。
アンネは彼女の日記を戦後公開するつもりで書いていましたが、その内容には母親への不満、自分自身でもコントロールが出来ていない複雑な感情の記述を多く残しています。
お世辞にも綺麗な言葉が使われているとは言い難いような書き方がなされていました。
自分の書いたものを世間の目に触れさせることが当初の目的だったのかもしれませんが、自由が制限され、愚痴をこぼすことも難しいような長い隠れ家生活の中で「日記を書く」という行為に彼女自身が救われていた面が少なからずあるのだと改めて感じました。
アンネの家に実際に訪問した今、これまでとは違った視点でアンネの日記を読んでみたいと強く思います。

 

今回の研修旅行では、普段日本で史料と向き合っている時とはまた違う現場ならではの新しい発見がありました。
しかしただその場に行けば新しい考えや視点が自然と浮かぶということはなく、日ごろから知識を身に付けるための努力をしたり、なにか目的意識をもって史料や展示と対峙したりすることが重要であることも再認識しました。
また、今回私はヨーロッパで歴史や文化を学びましたが、ただそれを単独で扱うのでなく日本との比較を行ってみることも必要だと感じました。
そのために、ヨーロッパのことは勿論日本の歴史や文化、現在の事象についてももっと理解を深めていかねばならない、という今度の課題を発見出来たことも大きな収穫であったと実感しています。
今回の貴重な経験と、そこで得た多くの学びを今後の学生生活にぜひ活かしていきたいです。