JĀTAKAジャータカをご存じでしょうか。JĀTAKAジャータカはパーリ語で書かれた南方上座部の経藏に含まれるテキストで、二十二編547話から成り、漢訳などの翻訳も多くいろいろな国々に伝搬し影響を与えました。仏教は紀元前後ころ、大乗仏教の興起によって大きく発展するのですが、その大乗仏教興起の条件として仏伝文学、仏塔崇拝、部派仏教の教理が考えられます。ここでは仏伝文学について考えてみます。大乗仏教の興隆には仏伝文学が大きく関わっていたのですが、これには各地に残る部族の説話と釈尊の前生譚の説話を繋げて大乗仏教が民衆に近づいていったと考えられます。
大乗仏教は利他の考え方に重きを置く思想ですが、その為に菩薩思想が発生し自己を犠牲にして他を利すると言う考え方が基本に置かれています。その発展過程の中で盛んにJĀTAKAジャータカが用いられました。JĀTAKAジャータカというのは釈迦の前世の善行を記した説話で現在物語、前世物語、連結の3部から成る話で、前世物語が中心です。釈迦の成仏が偉大であるほど、前世における修行も偉大であったに相違ないとするものです。成仏の為の修行を組織的に完成させ、土地の説話と絡ませて広めた、これがJĀTAKAジャータカです。その修行は六波羅蜜と呼ばれ、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの修行があり、その中でも特に布施と忍辱が重んじられました。このJĀTAKAジャータカの話はインドは勿論、ミャンマー、インドネシア、中央アジア、中国、日本など広く分布しています。
今回は、2016年3月にミャンマーで行ったJĀTAKAジャータカの調査旅行について述べます。ミャンマーは上座仏教の国で、国民は仏教に対して大変熱心な信仰を持っており老若男女、寺院はいつも信者で一杯です。また寺院に対して喜捨をする人も多く、それによって在家信者は功徳を積んでいます。仏教への信仰により社会全体はある種の安定を保っているように見えます。折しも軍政から民主政への移行期ということもあり、国全体は明るい希望を持っているように感じられました。
3月末のミャンマーの気候は、暑期に当たりだんだんと暑くなりかける頃です。事実、日本を出発するときの気温は6度、ヤンゴンは36度、帰国してまた6度、と気温差30度はかなり過酷でした。
ミャンマーにスリランカから仏教が伝わったのは12世紀ですが、その前から土着神としてナッ神を信仰していました。バガンから南東に50㎞行ったポッパ山はその精霊が棲む聖なる山として知られています。筆者も石段を何百段も登り、ポッパ山に登ったことがあります。
ヤンゴンからすぐバガンやマンダレーへ飛びました。バガンはビルマ族によって1044年に最初の統一王朝が成立した土地で、エーヤワディー河の両岸に大小幾千もの仏塔や寺院が林立しているところです。そのバガンにはJĀTAKAジャータカを残す多くの寺院があります。ミャンマーのJĀTAKAジャータカはテラコッタやその上から釉薬をかけたもの、或いは木彫りのものもあります。
シャーマJĀTAKAはこのような話です。
シャーマの父母は毒蛇に咬まれて失明します。シャーマは山で多くの種果を採って父母に孝養を尽くします。両親が喉が渇いたというので、彼は鹿革の衣を被って水汲みに出かけますが、鹿狩りに来ていた迦夷国の王が射た矢に当たり死にます。事の真相を知った両親は嘆き悲しみます。そこで天帝釈は彼の父母に対する孝養に感じ入り、シャーマは蘇生し父母も開眼するという話です。
アーナンダ寺院は、Baganバガンを代表する寺院ですから写真を載せておきます。
マンダレーの南方のザガイという街のティロカグル寺院にはこのように美しい彩色の仏教絵画が残されています。
マンダレーのShwenandawシュエナンドー寺院には、19世紀建立の珍しい木彫りのジャータカJĀTAKAもあります。
ヴェッサンタラ王子は大変布施が好きでしたが、バラモンに請われるままに奥さんやかわいい子供まで与えるという話です。
JĀTAKAジャータカには、このように大乗仏教に支えられた菩薩思想が表現されています。
<早田記>