こんにちは、松田忍(日本近現代史担当)です。
2016年度の前期には、ここ数年に出された最新の研究成果に触れることをテーマにした自主ゼミ(読書会)をやっておりました。主として1年生、2年生を対象としたゼミでしたが、論文のテーマに応じては現在卒論研究進行中の4年生も駆けつけて下さいました。
毎回の参加人数にはばらつきがありましたが、のべ36名が参加して下さいまして、それぞれ得るところも多かったのではないかと思います。
課題論文は下記の通り。いずれも新しい切り口と新しいデータでもって、日本近現代史の豊かなイメージを描き出した論文であります。
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第1回(2016年4月26日 16時30分~19時)
藤野裕子「第一章 日比谷焼打事件の発生と展開」 (同『都市と暴動の民衆史―東京・1905年-1923年』有志舎、2015年)
第2回(2016年5月10日 16時30分~19時)
佐々木啓「総力戦の遂行と日本社会の変容」(『岩波講座 日本歴史』第18巻近現代4、2015年)
第3回(2016年5月31日 16時30分~19時)
原山浩介「第1章 戦後闇市の興亡」(同『消費者の戦後史―闇市から主婦の時代へ―』日本経済評論社、2011年)
第4回(2016年6月14日 16時30分~19時)
井澤直也「第12章 大陸への修学旅行と帝国日本」(斉藤利彦編『学校文化の史的探究 中等諸学校の『校友会雑誌』を手がかりとして』(東京大学出版会、2015年)
第5回(2016年6月28日 16時30分~19時)
本康宏史「「軍都」金沢と遊廓社会」(佐賀朝・吉田伸之編『シリーズ 遊廓社会2 近世から近代へ』吉川弘文館、2014年)
第6回(最終回、2016年8月2日 16時30分~19時)
永岡崇「第4章 宗教経験としてのアジア・太平洋戦争―〈ひのきしん〉の歴史」(永岡崇『新宗教と総力戦 教祖以後を生きる』(名古屋大学出版会、2015年)
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1年生、2年生を対象とした自主ゼミなので、これらの論文を「順番に音読する」方式で進めました。「嚆矢」「管見の限り」など論文に用いられる表現、「畢竟(ひっきょう)」とか「動(やや)もすれば」のように史料によく出てくる表現に、最初はつっかえつっかえではありましたが、松田が手助けしながら、みなさん、だんだんとスラスラと読めるようになりました。
また多くの参加者が感じとって下さったのが、「史料引用」と「著者自身の文章」が織りなすリズムですね。史料と史料を組み立てて、ロジックをつくっていくんだ、と普段から言っているわけですが、実際のテキストを輪読することでそのことを多くの参加者が体感して下さいました。「論文ってこんなにたくさん史料を使うんですね」との声を聞くことが出来ました。
さらに何回か参加して下さった方からは、「この史料の使い方カッコイイ!」などの感想もでるようになり、嬉しかったですね。そうなんです。同じ史料があっても、著者の視線の注ぎ方次第でオーソドックスな使い方ができたり、カッコイイ使い方ができたりするんですよね。特に4年生からは「私の卒論でもこんな風に史料を使ってみたい」との声も出ていました。たとえば第1回の藤野論文では、サラッと読むだけだと日比谷焼き討ち事件の「面白エピソード」を示すに過ぎない些末な裁判史料を、組合せの妙によって、歴史像の構築へと結びつけていくエレガントさを、みんなで堪能しました。
あとは先行研究とのお付き合いの仕方もなんとな~く感じとって下さったんじゃないかなぁと思っています。先行研究を、そのまま受け入れて自分の議論の土台とするか、一部受け入れつつ違う角度から研究を進めるのか、それとも全面戦争を仕掛けるのか。たとえば、最終回に読んだ永岡論文などは先行研究を底の底からひっくり返す力業が魅力的な論文でしたね。その一方で、史料から立ち上げた第3回の原山論文のようなタイプの論文があることも勉強しました。
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今回は特にテーマを決めずに論文チョイスしたのですが、特定の研究テーマを持った自主ゼミも開いてみたいですね。まぁ、いずれにせよ、いろんなところに首を突っ込んで、学問の「経験値」をたくわえるのが1年生、2年生にとっては一番大事。良い論文は視野が広いですし、ガッツリと良い論文を読んでおくと、別のテーマを研究するときにも、どこかつながってくるんだよね!
2016年度前期自主ゼミはとりあえず終了ですが、これからも定期的にゼミを組んでいく予定です。次はどんなことやりますかというご質問は是非松田まで!
ではでは。
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おまけ