こんにちは。西洋史の小野寺です。
ヨーロッパ歴史演習学生レポートの最終回として、(1)博物館などを通じてヨーロッパではどのように過去の記憶を残し、伝えようとしているのか、(2)それ以外に演習を通して感じたこと、の二点について、学生の皆さんの感想をご紹介したいと思います。
クラクフのシンドラー工場博物館では、強制労働の部屋やユダヤ人の隠れ家などが再現されており、また、音声を流すことで当時の現場の様子を自分が実際に見ている(体験)しているように感じる展示がされていました。例えば、隠れ家のタンスを二重構造にして裏側に銃や手榴弾など武器が隠してある様子などが表(ただのタンス)と横(隠していた武器が見える面)で違う側面が分かる展示です。
アムステルダムのレジスタンス博物館は、客に自ら関心を持たせる様な展示の仕方の工夫が上手いと思いました。物が見えるガラスの面積が狭いため、自然と中を覗き込んでしまっていました。もしかしたら、関心を持たせて疑問に思わせるのが博物館側の狙いではないかと思います(2年Kさん)。
レジスタンス博物館では、当時自分の家の教会でユダヤ人たちをかくまっていた少年だったご本人が語りべとして、私たちが訪れた時にいらしていて、実際にお話を聴くことができたのは、とても貴重な経験でした。その方は、オランダ語だけではなく、英語も話せるということで、英語で話していただけました。話していることが全部わかったわけではないけれど、実際にその当時を経験した方の言葉は、そこにある展示物やガイドさんの話よりももっと力強く、そして、歴史的な事柄というよりも、もっと身近な出来事に感じました。また、語りべの方本人が話すことにも意味があるのかなと思いました。この方は現在80歳を超えていて、日本の戦争体験者もどんどん減っています。これからどんどんこのような方々が減ってくるということは避けられないので、私たちの後の世代の人たちは、今よりもっとこのような出来事を遠く感じてしまうのかなと思い、考え込んでしまいました。
ナチ・ドキュメントセンターは、写真や図とその説明文のみというとてもシンプルなもので、来場した人が意欲的にそれらを読まないと情報を得るのは難しいと思いました。また、私のように英語やドイツ語で長文を読むのが難しい場合には情報を得るのが難しいと感じました。しかし、このドイツ式博物館には、来場者に勘違いを持たさないように詳しく解説するという意図があるということを知って、ただ体験型のようなわかりやすいものが良いというわけでもないのだということを知りました。
軍事博物館でも印象に残ったことがありました。それは、現地の中学生や高校生が先生とその博物館のナチの展示物の前に座って、ディスカッションしていたことです。日本では、博物館の地面に輪になって座ってディスカッションすることはないので、とても驚きました。ナチについて、歴史を暗記するのではなく、歴史を通して考えたりするような授業をしているのかなと、どんなことを話し合っているのか、とても興味深かったです。そのような歴史教育的な部分も今回博物館や現地の学生の様子などを見て、感じれたことも良かったなと思いました。(2年Nさん)。
ウィーンの音楽の家では、ピアノの鍵盤のように色が塗られており上ると音が鳴る階段、ダイスを振り曲を演奏してもらえるゲーム、客が指揮者の体験をできるゲームなどがありました。こうした客が体験できるコーナーは、受け身として展示を見て終わってしまう展示よりも楽しさや学びやすさの面で効果が大きそうだと感じました。歴史に限らず、何かを学ぶ際には楽しい、興味を惹かれるといったきっかけが必要だと思います。そうしたきっかけを引き出すには体験型の博物館は大きな意味をもっていると感じました(2年Aさん)。
夜にザルツブルクの市内を先生と一部の学生達と歩きました。私はザルツブルク城を楽しみにしていたのですが、先生や先輩方が「躓きの石」(上の写真)というものを見つけていました。躓きの石は、かつての犠牲者の住んでいた家の前の道に、石を埋めるという活動をしているものでした。偶然道を通り、下を見ていると、躓きの石がいくつも見つかりました。ふとした瞬間の、現代に通じたユダヤ人の名残、今のこの犠牲者を思う行動、全てが繋がっていました。日本でこういったことは見たことがありません。そういった面でも、ヨーロッパの意識、日本の意識のその違いを感じるという新たな気づきでもありました。ただ道を歩いていただけなのに、歴史というものを、ユダヤ人を身近に感じ、とても良い経験になりました(2年Tさん)。
足元に注意していないと見つからないけれど、過去の記録がしっかりと町中にあるということが驚きでした。大勢の被害者としてではなく、この場所でここに建っていた家で生活していた個人として考えてしまい、過去の歴史が目の前にあることが感じられました。町の風景の中に歴史が刻まれていることは、気にしなければ通り過ぎてしまうものだとしても、あるとないでは大きな差だと思います。日本ではあまり見かけない記憶の残し方は自分の中で新たな発見でした(2年Yさん)。
ウィーンの国立歌劇場は建築物として眺めるだけでもとても美しく、細部の彫刻など、そこで目に入るもの全てに感動していました。
演目の内容はシンデレラでしたが、私たちが一般的にイメージするシンデレラとは異なり、現代版にアレンジされたものでした。
演者の方々の歌唱力も、オーケストラの演奏も非常に素晴らしいうえ、舞台セットも背景で雨が降っている表現がされていたりと、驚かされることだらけでした。雨が降っていたシーンは、私には本当に水が滴っているようにしか見えず、どのようなセットになっているのかが非常に気になりました。
そしてこのシンデレラの王子様の家には今のものではない、イタリア国旗を背景に労働を表す鎌が描かれた国旗が掲げられていたことが印象に残っていて、見ていた時私は「あれ?」と思う程度でしたが、小野寺先生のお話を鑑賞後聞くと、あの旗の意味とともに、はたしてあの王子様は本当にいい人と言えるのかという疑問が浮かぶということが分かり、歴史を勉強するとこのような演劇の鑑賞においても深く理解することができるんだと思いました。普段あまり演劇を見に行ったりすることはないのですが、このようなことに気が付けるというのはとてもおもしろいと思います(2年Mさん)。
研修旅行中に、個人的にとても良い経験をしたと思ったことがありました。ミュンヘンのロビーで友人たちとすごしていた際、同じ場所に居合わせたロマ(ジプシー)の家族に話しかけられ、長い時間対話する機会がありました。その男性は「日本と中国の差ってなんだい?」「日本にジプシーはいるのかい?」といった質問をしてきました。私はうまく答えられませんでした。質問が難しい上に、自分の英語力で伝えきれなかったというのもあります。
彼らはうまく伝えられない私たちとは違い、逆に多くのことを教えてくれました。彼らロマの言葉や家族のこと、音楽と踊りのことなど様々です。また、私たちが研修旅行でドイツを訪れたことを話すと、興味を持ってくれたので、アンネ・フランクやゾフィー・ショルについて話すと、初めて知ったと言われ驚きました。ドイツの人は全員知っていると思い込んでいたからです。もちろん彼らがそちらの方面での学問を学んでいなかっただけかもしれませんが、ロマがナチスの強制収容所に連れていかれたことは知っていたようなので不思議に思いました。
質問されたことに対してきちんと返せなかった自分の語学力の少なさに対する反省もありますが、それでも積極的にコミュニケーションを図ったことで得たものが多かったという喜びもありました(2年Yさん)。
今回はカトリック教会の教会や修道院を二箇所観ました。中は豪華絢爛で、私がもし文字が読めない貧しい農民であったら、普通にその美に圧倒され信じ込むだろうと思いました。つまり美は利用されるということです。人間が美を求めるとわかっている教会は、それを利用して信者を獲得していたのです。美は、あまりの影響力の強さからいつの時代にも利用されるものだと感じました。ですが美はときに、人の命をつなぎとめる働きをするものだと思いました。レジスタンス博物館で展示されていたように、あるオランダ系の囚人は食べ物より化粧品を選び、自らの美貌で生き残ったのです。美は使いようではどうとでもなる、恐ろしくて、しかも素晴らしいものだと思いました。
人間は美しいものをたくさん歴史に残してきた。だがその反面にアウシュビッツがある。全部アウシュビッツを結びつけるのは良くないことだと思いますが、シェーンブルン宮殿をつくったのもアウシュビッツをつくったのも同じ人間だと思うと恐ろしいです(2年Oさん)。
今回の研修旅行では、狭い教室を飛び出して自分の五感と体をつかって現地でさまざまなことを体験しました。しかし、ヨーロッパに行ったからヨーロッパのことだけを学ぶのではなく、ヨーロッパを知るためには日本についての理解もなければならず、常に比較対象が存在するのだと痛感しました。
また、演習で私が最も強く感じたことは、知識をもっていることは大切だが、実物を見た時のインスピレーションはもっと大切だということです。知識は本を開けば入ってきますし、いつでも得ることができます。しかし、実物を見た時の衝撃やひらめきはほんの一瞬のことであり、感じ方は毎回必ず同じとは限りません。ましてや今回のように海外に行くことはそう頻繁にできることではないので、現地で感じたことはとても貴重なものだと思います。
知識を得て実物や新しいものから新たな発見をし、途中で迷いながらもそれを繰り返し行うことが自分の研究に繋がっていくのではないかと思いました(3年Sさん)。