長崎市街地巡見 [2018年11月25日(日)]

こんにちは、松田忍(日本近現代史)です。

11月22日~23日と光葉同窓会長崎県支部会に出張してきたのですが、出張したからには空き時間に現地を歩き倒す「歴文イズム(=手で考え、足で見る)」を発揮してきました。

特に「戦後史史料を後世に伝えるプロジェクト」に関連して、長崎の原爆関連遺産を見て回りました。重視したのは公共交通機関やタクシーを使わず、「自分の足で歩くこと」です。

【11月22日夕方~夜】

22日の夕方に長崎駅前のホテルにチェックインし、すぐに外出して暗くなるまで歩きました。

浦上駅で亡くなっていた母子の写真が、吉田一人さんが「被爆者として生きること」を決心するきっかけになったんだなぁと思い出しながら、浦上駅から出発します。

原子爆弾落下中心地碑を出発点として、北へ向かって歩きました。中心地碑の近くには、崩壊した浦上天主堂の遺構も移築されています。

そこから北に進み、平和の泉から平和祈念像を臨みます。

更に北上して戦後再建された浦上天主堂。浦上天主堂をはさんで、爆心地の反対側には、被爆後に崩壊した旧浦上天主堂の鐘楼が、当時のままの姿で残されています。

長崎駅前に戻るときには、茂里町を通って戻りました。茂里町は長田孜さんが勤労動員にかりだされ、魚雷を磨く仕事をしていた三菱の工場があったところです。原爆が投下された8月9日にはたまたま長田さんは福岡県に帰省していたため、ご無事だったのですが、「もし帰省していなかったら即死だったね」とおっしゃっていた意味も実際に歩いてみるとよく分かりました。原爆落下中心地から遮るものなく、数百メートルの位置に茂里町がありました。

【11月23日8時~10時】

翌朝は早朝から起きて、8月9日における吉田一人さんの行動に沿って歩いてみました。8月9日長崎駅へ切符を買いに行って、中川町まで戻ってきて立ち話をしているときに吉田さんは被爆しました。私も長崎駅から東の方へ新中川町の電停まで歩きます。ざっと20分くらいでしょうか。

ただ長崎駅だと爆心地から見渡すものがないのに対して、中川町だと間に金比羅山があります。標高400メートル足らずの小高い丘ですが、原爆の威力のうち熱線の直撃のみは避けられ、金比羅山に助けられたという吉田さんのお話の意味がよく分かります。それでも金比羅山を超えてきた爆風に体ごと吹き飛ばされ、塀に打ち付けられたと吉田さんはおっしゃっていたことも思い出します。

【11月23日11時30分~14時30分】

そのあと、ホテルニュー長崎の光葉同窓会長崎支部会に出席しました。

私からの挨拶のなかでは、昭和女子大学が現在も力強く発展し続けており、多くの受験生の皆様に選ばれる大学になっていることをお話ししました。またグローバル、プロジェクト、キャリアの3本柱で学生たちを育てる軸になっていることをお伝えする中で、戦後史史料を後世に伝えるプロジェクトで、学生たちと被団協関連史料の分析をおこなっていることをお話しいたしました。

挨拶後、同窓生から「ここに集まっている同窓生の中にも何らかの意味で原爆とつながっている人がたくさんいるのよ」とのお話をうかがいました。

吉田さんや長田さんの話も含め、その土地に眠る記憶を強く感じた出張でありました。プロジェクトのメンバー学生たちと実地を歩いてみる旅行を計画してもいいかなと思っております。