こんにちは!現代教養学科4年、鶴田ゼミの廿楽です。
私たちゼミ4年生は、8月8日に東京都北区赤羽台にある「URまちとくらしのミュージアム」を訪れました。
当日は、4つの団地の復元住戸を中心とした展示空間を順に見学し、それぞれの時代の特徴や工夫を学びました。その様子を写真とともにお伝えします!
「URまちとくらしのミュージアム」は、4つの団地・計6戸の復元住戸や映像資料を通して、都市や集合住宅でのくらしの歴史や、まちづくりの変遷を学ぶことができる施設です。
■ 同潤会代官山アパート(昭和元年建設)
1923年の関東大震災後、住宅復興を目的に設立された同潤会が建設した、日本で最初期の本格的な鉄筋コンクリート造集合住宅です。
単身用と世帯用の住戸があり、いずれもお風呂はなく、共用の銭湯や食堂を利用していました。こうした空間は住人同士の交流の場にもなっていたそうです。
一見シンプルながら、通気口で風の通り道を確保する工夫や、各住戸外に避難梯子を設置するなど、震災後らしい防災配慮も見られました。

鉄筋コンクリート造の柱 (右)
■ 蓮根団地(昭和32年建設)
戦後の住宅不足解消を目的に、量産・標準化された代表的な2DKの住宅です。
食事と就寝を分ける「食寝分離」が可能となり、衛生や家事の負担軽減につながりました。当時の入居倍率はなんと100倍!
備え付けのダイニングテーブルや、食器棚の裏が靴箱になるなど、生活を便利にする仕掛けが随所に見られました。

実は…食器棚の裏は靴箱になっています!(左下)
6畳半と4畳半の部屋があって、 寝る場所がしっかり確保されています!(右)
■ 晴海高層アパート(昭和32年建設)
当時としては珍しい10階建てで、エレベーターが2基設置されていました。ただし停まるのは奇数階(1,3,6,9階)のみで不便だったため、後に2階の住人専用の螺旋階段が加えられました。
子どもが遊べるよう広く設計された共用廊下や、玄関を引き戸にする工夫、共用黒電話など、住民の暮らしを便利にする仕組みが盛り込まれていました。欄間にガラスを用いることで、明かりを室内に取り込む工夫も印象的でした。

廊下にある共用の黒電話 (左下)
当時使われていたエレベーターに乗ってみました!(右)
■ 多摩平団地テラスハウス(昭和33年建設)
郊外型の団地で多く採用された形式です。専用の庭を持ち、近隣住民との交流やコミュニティ形成の場となっていました。黄色の外壁と緑の扉が印象的で、当時の生活の温かみが感じられました。

■団地はじめてモノ語り
示の最後には、実際の住宅部品や写真を通じて、戦前から今日まで団地がどのように変化してきたのかを体感しました。
また、同じ敷地内にある登録有形文化財「旧赤羽団地」も見学。放射状に配置された住戸や、どの部屋にも光と風が届くよう工夫された設計を、模型ではなく実際の建物で体感できたことは大きな学びでした。
左の写真は、戦後の日本で建設された団地です。住戸が3つ、放射状に配置されており、上から見るとY字型になっています。すべての住戸が角部屋になるよう設計されているのも大きな特徴です。右の写真は、団地内に多く建設された標準的な住棟で、どの住戸にも光や風が届くよう工夫された設計になっています。こうした展示を、写真や模型で見るだけでなく、実際の住棟を歩いて体感することで、当時の暮らしをよりリアルに想像することができました。
■ まとめ
今回の見学を通して、団地は単なる住まいではなく、時代ごとの課題に応え、人々の暮らしを支えてきた存在であることを実感しました。
昭和初期の同潤会代官山アパートから、戦後の蓮根団地、晴海高層アパート、そして多摩平団地テラスハウスまで、それぞれに時代ならではの工夫や特徴がありました。どの団地も住民同士の交流を大切にしていたことが伝わってきます。
近隣とのつながりが希薄になりがちな現代だからこそ、かつての団地に見られた「自然に人とつながれる工夫」や「支え合う仕組み」から学べることは多いと感じました。団地の歴史を振り返ることは、これからの住まいやまちづくりを考える上で大切なヒントを与えてくれるのだと思います。
(記事:鶴田ゼミ4年・廿楽)