森鷗外と美術 ― 「花子」をめぐって ―

「文学と美術」(日本文学Ⅰ・近代B)の後期の授業は〈夏目漱石と美術〉の
話をしたところで終ってしまい、他の作家の話ができなかったので、このブログで
〈森鷗外と美術〉について、書いておきたい。
鷗外と美術との関係は多様だが、その典型は「花子」(明治43/1910年7月発表)
という短篇小説だろう。

あらすじは――
パリのロダンのアトリエへ、通訳の久保田医学士に伴われて日本人の女優花子
が訪れる。ロダンは彼女の素描をするために呼んだのだったが、久保田は見かけ
がみすぼらしい花子を、日本の女性としてロダンに紹介するのが恥かしかった。
が、ロダンは張りつめた全身をもっている花子の姿を見て満足していた。やがて
花子のデッサンを終えたロダンは、久保田に西欧の美とは違う花子の美しさに
ついて語るのだった。

1910年当時のロダン(Auguste Rodin 1840‐1917)は70歳。ここに登場する「花子」
は本名を太田ひさ(明治1/1868-昭和20/1945)といい、愛知県生れ、芸妓として
暮していた明治35年に、コペンハーゲン万博で働くためヨーロッパに渡り、高名な
舞踊家で興行主のロイ・フラーに見出され、「花子」と名乗り、日本演芸の一座を
率いて活躍。ロダンは1907年に舞台の花子を観て以来、彼女をモデルに塑像を造って
いた。

【空想する女・花子】

したがって、この鷗外の短篇は、全くのフィクションではない。
ロダンが、わが国で「近代彫刻の父」として知られるようになったのは、明治43年
11月の雑誌「白樺」の「ロダン号」の特集だった、といわれているが、それよりも
四か月先んじて、鷗外はロダンを小説の中に登場させたのだった。
当時のロダンの評判は、フランスからよりも、ドイツを経由して日本に入って来て
いたので、ドイツ通の鷗外は、いち早く彫刻家とモデルの日本女性花子との間柄を
知っていたわけである。
ロダンは生涯に、花子をモデルとする彫刻58点と30点以上のデッサンを残している。
作中、ロダンと久保田医学士が挨拶を交わす場面には、

ロダンの目は注意して物を視るとき、内眥(めがしら)に深く刻んだような皺が出来る。
この時その皺が出来た。視線は学生から花子に移つて、そこに暫く留っている。
学生は挨拶をして、ロダンの出した、腱一本一本浮いている右の手を握つた。
La(ラ) Dainaide(ダナイイド)やLe(ル) Baiser(ベゼエ)やLe(ル) Penseur(パンシヨオル)を作った手を握った。
そして名刺入から、医学士久保田某と書いた名刺を出してわたした。

とある。
La Dainaide「ダナイス」(1889)、 Le Baiser「接吻」(1888‐90)
Le Penseur「考える人」(1881‐82)は、むろんロダンの代表作だが、
このフランス語の原文から、ただちに彫刻の実像を思い浮かべることのできた読者は
きわめて少なかったであろう。
しかし、鷗外がこの小説で、読者に一番伝えたかったのは、次のような
ロダンの言葉だったにちがいない。

【ダナイス】


【接吻】                【考える人】

「人の体も形が形として面白いのではありません。霊の鏡です。形の上に透(す)き
徹(とお)って見える内の焰(ほのお)が面白いのです。」
「マドモアセユは実に美しい体を持っています。脂肪は少しもない。筋肉は一つ
一つ浮いている。Foxterriers(フォックステリエエ)の筋肉のようです。
腱(けん)がしっかりしていて太いので、関節の大(おおき)さが手足の大さと同じになっています。
足一本でいつまでも立っていて、
も一つの足を直角に伸ばしていられる位、丈夫なのです。丁度地に根を深く卸(おろ)して
いる木のようなのですね。肩と腰の濶(ひろ)い地中海の type(チイプ)とも違う。腰ばかり濶くて、
肩の狭い北ヨオロッパのチイプとも違う。強さの美ですね。」

ロダンは、日本人の久保田が「一種の羞恥を覚える」ほどの、「別品ではない」
花子に、均整のとれた調和的な「美」を見出したのではなかった。
つまり、「形」の上にあらわれる「内の焰」こそが彫刻で表現すべきものであり、
その「強さの美」を日本の女性花子の「体」が、文字通り体現していたのだ。
ギリシア・ローマ時代以来の、ヨーロッパの美の基準に対する「内の焰」=内面の
重視、それが彫刻家ロダンの「近代」的な芸術観にほかならないこと、その芸術観が
モデルとして花子を選び出したことを、鷗外は読者に伝えたかったのだと思う。

なお、ロダン、花子ともに実在の人物だが、日本人通訳の医学士久保田にも、
モデルがいたといわれている。
そのモデルは、名を大久保栄(1879‐1910)といい、鷗外宅の書生をしながら
長男於菟(おと)の家庭教師もつとめた彼は、帝国大学医学部を首席で卒業し、病理学研究
のためドイツに渡ったが、腸チフスに感染し、出先のパリで明治43年6月11日に
逝去、享年わずかに31であった。
死の直前の6月9日に、鷗外はパリに来ていた大久保あてに手紙を送っている。
大久保がパリで客死した翌月に発表したこの小説に、その名字から二字を取って
医学士「久保田」を登場させたのは、作者鷗外の、大久保に対する深い哀悼の
意に発しているのだ。
芸術作品は、鷗外がロダンに言わせたように、「内の焰」から産まれるもの
ではあることはむろんだが、こうした人を悼むこころがそれを支える時もある。

大学の授業は、教室で受けた講義の内容を理解すれば終り、なのではなくて、
そこから自分の知見を広げ、深めるためのひとつの契機、出発点である。
もしこの話題に興味を持ったなら、ぜひ鷗外のほかの小説を読み、また、ロダン
の彫刻を実際に観てほしい。
上野の国立西洋美術館の前庭には、「考える人」をはじめとするロダンの彫刻が
何点も置かれていて、入館しなくても、思う存分、観ることができる。
鷗外も、ロダンも、あなたが作品を観てくれることを、きっと望んでいるはずだ。

(吉田昌志)

画像元:『ロダン事典』淡交社、2005,4