八月十八日という日 -渇きをいやすために- [2020年08月20日(木)]

〈日文便り〉

暑い…。とにかく、暑い。
新型コロナウィルスといい、この暑さといい、お天道様に対して、
わたしたちがいったい何をしたんですか、と訴えたくもなるのだが、
無力なわれわれは、ひたすら堪えるしかない。

なんとか道を拓くために、ブログの登載日「八月十八日」にちなんで、
作家が、この日をどのように過ごしていたのか、抜書きしてみよう。

まず、樋口一葉の「塵中日記」の、明治二十六年(1893)八月十八日から。

十八日 朝来あれもやうにて、風ものすさまじ。帰宅後、更に大音寺前に
せんべいをあつらへ、駒形に蠟燭の注文をなし、門跡まえにしぶ団扇を
あがなひ来る。今日下駄をもとむ。跡歯の白木にて、さらさ形の革鼻緒
なりしが、代金二十銭なりし。夕刻より雨に成る。風力さらに加りて、
ほとんど嵐に似たり。戸を明け置く事あたはざれば、はやくおろして
臥したり。

一葉は、苦しい家計を打開するため、七月二十日に下谷龍泉寺町(通称大音寺前)
へ転居、八月六日にここで荒物駄菓子を売る店を開いた。
日記中の「せんべい」「蠟燭」「しぶ団扇」「下駄」は、すべて仕入れた商品
である。荒天のなかの仕入れは、さぞ難儀だったろう。
しかし、この商売は軌道に乗らず、翌二十七年の五月には店をたたんで、本郷
丸山福山町(終焉の地)へ引き移った。
大音寺前の生活は十か月足らずだったが、ここでの体験が一葉の「作家的開眼」
をもたらしたことは良く知られている。

続いて、森鷗外の明治四十三年(1910)八月十八日の日記には、

十八日(木)。陰。茉莉、栄と途中まで同車す。桂田富十郎(岡山)
土肥慶蔵(麴町)幸田成行(向嶋)に書状を遣す。

とある。いかにも鷗外らしい簡潔な記述。
当時の鷗外は、軍医の最高位・陸軍軍医総監にして陸軍省医務局長。
地位の安定を得て、もっとも創作活動の盛んだった時期であり、多くの翻訳や
短篇小説のほか、「青年」を連載中だった。
陸軍省医務局への出勤の際に同車していたのは、長女の茉莉(当時八歳。のち作家
となる)と、鷗外夫人しげの妹・山口栄子。
病弱だった茉莉には、義妹の栄子がいつも付き添って世話をしていたのだった。
書簡を送った幸田成行の号は「露伴」。明治二十年代に、尾崎紅葉、坪内逍遥と
ともに「紅露逍鷗時代」を謳われ、ともに文学の先陣を切った作家である。

鷗外「青年」の執筆に刺戟を与えた「三四郎」の作者・夏目漱石は、同じ年、
明治四十三年の同じ日、伊豆修善寺温泉の旅館「菊屋」の一室に病臥していた。
この六日後の二十四日の夜に、大量の吐血をして、三十分あまり人事不省に陥る。
いわゆる「修善寺の大患」である。
漱石は八月六日に修善寺へ到着したが、当初はそれほど長く逗留するつもりでは
なかった。
容態が安定し、帰京したのは二か月後の十月十一日である。


▲修善寺温泉菊屋旅館

一葉と同じく、この体験は以後の漱石の人生観と文学を変えた。
と、ここまで書いてくれば、おのずから、この三人の作家それぞれの作品を
読み返してみたくなる。

一葉なら、大音寺前を舞台にした「たけくらべ」を。
鷗外なら、この月に発表した「あそび」と、連載中だった「青年」を。
漱石なら、修善寺の大患を契機にして書かれた「思ひ出す事など」を。

かくして、わたしたちは、この堪えがたい炎暑のなか、文学の深い森の中に
分け入って、豊かな言葉の泉を汲み、渇きを癒すことができるのである。

(吉田昌志)