<日文便り>
このところは、泉鏡花よりも樋口一葉について考えている時間が多い。
今度、「紙幣に描かれた女性たち」と題する講座で、樋口一葉を担当することになって、
そのための材料を調えている最中なのだ(その報告は、後日、このブログで)。
日清戦争(明治27/1894~28/1895)後の文壇へ、彗星のように現れて、当時、男性ばかり
だった文壇の寵児となり、その頂点に達した明治29年の11月に逝った彼女の二十四年の生涯は
「光芒」というにふさわしい。
泉鏡花も、ちょうど同じ時期、あの「夜行巡査」「外科室」で、新進作家として注目を浴びて
いて、鏡花は彼女を「好敵手」と目していたのだが、二つ年上の一葉は、鏡花の存在をほとんど
認めていなかった。
これは、鏡花に限ったことではなく、彼女の重んじた作家は少なかった。
当時の日記(「水の上日記」)に、次のように書いている一葉である。
おそろしき世の波風に、これより我身のただよはんなれや。思ふもかなしきは、
やうやうをさな子のさかいを離れて、争ひしげき世に交はるなりけり。
「きのふは何がしの雑誌にかく書かれぬ」「今日は此大家のしかじか評せり」など、
唯春の花の栄えある名ばかり得る如く見ゆるものから、浅ましきは其底にひそめる
所のさまざまなりけり。「若松、小金井、花圃三女史が先んずるあれども、おくれて
出たる此人もて、女流の一といふを憚らず。たたへても猶たたへつべきは、此人が才筆」
などいふもあり。(…)あるは外つ国の女文豪がおさなだちに比べ、今世に名高き
秀才の際にならべぬ。何事ぞ、おととしの此ころは、大音寺前に一文菓子ならべて、
乞食を相手に朝夕を暮しつる身也。学は誰れか伝えし、文をば又いかにして学ぶ
べき。草端の一螢、よしや一時の光りを放つとも、空しき名のみ、仇なるこゑのみ。
(明治28年10月31日)
日文のみなさんには不要かもしれないが、文語体なので、いちおうの口語訳をつけてみよう。
【口語訳】
おそろしい世間の波風に、これから自分が漂っていくのだなあ。思っても悲しいのは、
やっと幼児の境界を離れて、争い激しい世間に交わっていくことだ。
「昨日は何とかいう雑誌にこう書かれた」「今日はこの大家がこんなふうに評した」
など、ただ春の花のように華やかな名声ばかり得るように見えるものの、あさましい
のは、その評判の底に潜んでいるさまざまな思惑であることよ。
「先に文壇に出ている若松(賤子)、小金井(喜美子)、(三宅)花圃の三女流文学者
があるけれども、遅れて文壇に出たこの人(一葉)をも女流の第一人者と呼ぶことに
何の差し支えもない(ほど優れている)。褒め讃えてもなお、褒め足りないのはこの人
の才筆だ」などという者もあり、(…)また外国の女流文豪の素質と比較したり、現代の
有名な天才の列に並べるのだ。いったい、これは何ごとなのだろう。おととしの今ごろは、
大音寺前に駄菓子を並べて、乞食同様の客を相手の商売に朝晩を送った自分の身の上では
ないか。学問は誰のものを伝えたのか、誰から学んだというわけではない。また文章を
どうして学ぶことができよう、学ぶ機会を得なかった無学の身の上だ。たとえていえば、
草のはしに止まる一匹の螢のようなもの、たとえひとときの光を放つとも、それは空虚な
名声であるにすぎず、実体のない、むなしい評判にすぎないのだ。
自分に先んじて女流文学者となった三人を凌駕する評判、春の花のように「栄えある」
名声を「空しき名のみ、仇なるこゑのみ」と自戒する彼女。もう自分に残された生命の
少ないことを悟って厭世的になっていたのかもしれないが、世の中を決して甘く見ない
性向は、彼女の本性であったと思うし、また作家としては欠くべからざる資質でもあろう。
当時二十三歳の女性が、このように冷徹な認識をもっていたこと、実に驚くほかない。
あの「たけくらべ」の作者が、こうした冷厳きわまりない思いを抱きつつ日を送っていた
ことを、多くの人は知らないのではなかろうか。
ましてや、日ごろ五千円札を使っている人々の多くもまた。
というようなことを話してみたいと思い、講座の前説のつもりで書かせてもらった。
泉鏡花は、わたしに夢を見せてくれるが、一葉は、いつも夢を醒ましてくれる。
二人とも、わたしにとって、かけがえのない作家である。
(吉田昌志)