<日文便り>
この夏休みは、ずっと高村光太郎のことを考えていた。
光太郎の「詩」ではなく、光太郎の「彫刻」について、である。
ここ数年来、泉鏡花の師匠・尾崎紅葉の死(明治36年・1903)の前後のことを調べているうち、
東京美術学校(現東京藝術大学)の彫刻科を卒業したばかりの二十歳の高村光太郎が、
紅葉の死の直前に関係をもったことを知ったからだ。
その「関係」とは何か?
世にはあまり知られていないのだけれど、光太郎は死期の迫った紅葉の肖像を造るため、
この年の八月に、病床を訪ねて、わずか数日でこれを完成させた。
光太郎は、かねがね明治の文人芸人の優れた人物十二人の肖像をシリーズで
造りたいと考えていたのだった。
両者の関係は、肖像制作者とそのモデルだったわけである。
それから二か月後の、十月三十日に紅葉が胃癌で亡くなると、その翌日、
帝国大学病院で行われた遺骸の解剖に立ち会って、
今度は「解剖台上の紅葉山人」と題する塑像を造った。
つまり、光太郎は、生前と死の直後に、二体の紅葉像を造ったわけである。
生前の紅葉の肖像は、その後に亡失してしまい、写真も残っていないが、
「解剖台上の紅葉山人」は、光太郎の実弟・高村豊周(鋳金家)の所蔵するところとなって、
今にのこっている。
著作権の関係があって、画像を示すことのできないのが残念だが、
・『高村光太郎 造型』(春秋社,1973)
・『高村光太郎 彫刻全作品』(六曜社,1979)
手近なものでは、
・『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』(新潮社,1984)
に、写真があるので、ぜひ一度ご覧いただきたい。
所蔵者の高村豊周が、「紅葉の死顔を実物より稍大きく作り上げた」もので、
四角な木の棒みたいなものを枕として仰臥した紅葉は眼が落ちくぼみ頬はこけ、
口を僅かに開いている。
極めて荒いタッチであるが、文豪の死を記念する唯一の珍しい作品である。
と解説しているとおり、尾崎紅葉の事実上の「デスマスク」なのである
(ちなみに、大正11年・1922に森鷗外が亡くなった時、
与謝野鉄幹から鷗外のデスマスクを取るよう依頼された光太郎は、
これを断わり、新海竹太郎がデスマスクを作成し、現存している)。
このほか、光太郎は「獅子吼」と題する日蓮の立像(美校卒業制作・現存)や、
サーカス小屋の玉乗りの少女が親方から折檻されて泣いているのを、
兄弟子の少年がかばっている二人立ちの像「薄命児」(現存せず)も造っている
(高校時代、わたしはこの像の写真を切り取って、机の前に飾っていた、
光太郎彫刻の中で最も好きな作品で、先の三冊にも収録されている)。
しかし、光太郎は後年、これらの青年期の彫刻を「文学過剰」だとして嫌悪し、否定してしまう。
なぜかといえば、彼はロダンの彫刻と出会ってしまったからだ。
近代彫刻の「絶対神」のようなロダンの彫刻に接しては、
自分の若いころの制作に嫌気がさすのも当然であろう。
日本の近代彫刻は、ロダンに学んだ高村光太郎とその友人荻原(おぎわら)守衛(もりえ)
(明治43年・1910に31歳で夭折)の二人によって開かれた、というのが美術史の定説である。
だがしかし、ロダンとの出会いは光太郎にとって、本当に幸せなことだったろうか。
わたしは、光太郎が彫刻から文学的な発想を排除しなかったならば、
もっと別の新しい近代彫刻が展開したのではないか、と思うことがある。
ロダンの彫刻を理想とするのは判るのだが、文学が、また彼の詩に奔出している情感や生命感が、
なぜ彫刻からしりぞけられてしかるべきなのか、
文学と彫刻との融合がなぜいけないのか、今のわたしには、まだよくわからない。
そのことが説明できるようになったら、「文学と美術」の授業で、
みなさんに「高村光太郎の文学と彫刻」の話をしてみたい。
もう少し時間をください。
最後にひとつ。
高村光太郎は「書」にも秀でていて、優に一家を成す。
墨書もペン書も、まことに味わいが深い。
書道に興味のあるかたには、ぜひ光太郎の書も鑑賞しておくことをお奨めする。
晩年に「書はやっぱり最後の芸術だな」と述べている光太郎の書は、
・『高村光太郎 書』(二玄社,1966)
・『高村光太郎 書の深淵』(二玄社,1999)
の二書で見ることができる。
(高村光太郎の命日は昭和31(1956)年4月2日、この日を「連翹忌」という。)
(吉田昌志)