<授業風景>
「面白くてためになる授業って?」
「ワクワクの問いの見つけ方は?」
「プレイフルでディープな学びって?」
そんな声にこたえようと、学生たちと一緒にはじめた「クリエイティブ国語授業のつくり方」。
今ここでは見えない「ワクワク・ドキドキ」の現場を共有してもらえることを願いつつ、
「クリエイティブ・レッスン・イン国語」舞台裏へのご案内です。
ある日の授業、テクストは高校現代文「山月記」、虎になった李徴の物語です。
「詩人になりそこねた男が発狂して虎になる」強烈なイメージをもつ学生たちは、こう言いました。
「もっと、李徴に迫っていきたかったのに、読解だけで終わって残念」
「李徴の心の声をもっともっと聴きたかった」
そんな学生たちの思いを実現すべく始めたのが「謎解き山月記」。
一人一人が、テクストから「謎」を拾い出し、
それをグループでシェアし、グループごとに掘り下げる「謎」を決定。
そこからチームごとに「謎解き」ワークが始まります。
「山月記」の世界にダイブし、謎の整理と深化を図りながら、登場人物の想いに迫ります。
チームの謎解き全体発表を終えた後、
「私の謎解き」と称し、李徴の生き方・考え方を自身の問題として文章化し、
それを、仲間たちとシェアする、という展開です。
チーム「謎解き」の場面で、学生達は、思いを、気持ちを、言葉にし、
語り始めるまで、幾度となく言いよどみ、言いなおし、沈黙を繰り返しました。
しかし、その沈黙の中から、いつか、必ず声がうまれていきました。
じっと耳を傾けてくれる仲間たちにはげまされるように、
学生たちは、自分の心の奥深くに、潜り込み、再び言葉を模索し、新たな語りをはじめます。
沈黙も語り直しも、言いよどみも、それはすべて語り手の思いと深い考察の表れであり、
それゆえ、沈黙に耳を傾ける聴き手の存在こそが大きな役割を果たしている、
語りの生まれる現場に立ち会った私は、大きく心を揺さぶられます。
「謎解き山月記」が終わったとき、学生がいいました。
「先生、李徴の声が、聞いてみたいです」
「今からここに、李徴をよんでみたいです」
「先生、ホット・シーティングやりましょう」
ここから「ホット・シーティング」による李徴との「対話」が始まったのです。
このホット・シーティングとは、
「いま、ここで」李徴になった人物が中央の椅子(ホットシート)に座り、
仲間からの「問い」に、李徴となって「こたえる」というドラマ技法です。
どんな問いが発せられ、どう答えるか、全く想定不能、筋書きのないドラマへの挑戦です。
「高校時代、私も、李徴の想いをからだで感じてみたかった」そうつぶやいたSの声をうけ、
私は学生たちに語ります「では、山月記、最後の冒険のはじまりです。今、ここに、李徴が登場したら、みなさんは、どんなことが聞いてみたいですか?聞きたいこと、たくさんあげてみてください、それをグループでシェアし、聞きたいことベスト3を決めて紙にきだしてみましょう」グループでの問いが決まったところで、いよいよ、「ホット・シーティング」のはじまり。
それぞれのグループから登場した李徴がホットシートに座ります。
この5人の李徴に対し、同じ「問い」をなげかけ、「李徴」は「問い」に即興で答える。
これを3シーン行うことで、全員が「李徴」となって生きることにチャレンジする、
これが、クリエイティブ・レッスンのコア・アクティビティです。
仲間たちが次々に発する問いにこたえた「李徴」の語り、その一部を紹介しましょう。
(Q:質問役の学生 R:李徴役の学生)
Q:袁傪(えんさん)に会った時、あなたは、どんなことを思いましたか?
R:驚きました、まさか、出会えるとは思ってなかったから・・自分が人間でなくなるまえに、最後に、袁傪にあえて、嬉しかった・・・
Q:どうして嬉しかったのですか?
R:袁傪は、私の、唯一の友達だったから。気取っていて、嫌なヤツだった私の話を、一生懸命聴いてくれる人だったから・・・
Q:袁傪に、いろいろなことを語りながら、どんなことを思ってましたか?
R:虎として生きるしかないという事実を、認めたくなかった、でも、虎として生きること、それを、語りながら、受け入れていったような気がします。人間としての自分の思いを、袁傪が、最後まで聞いてくれたから、ありがたかった、うれしかった・・・
(中略)
Q:もう一度だけ、人間になれるとしたら、その一度だけの時間に何をしたいですか?
R:詩を、世間に発表したい、自分の生きてきた証として・・・人間としての自分は消えても、詩さえ残れば、俺は、人間としての私は、生き続けることができるから・・・
Q:さいごに、山の頂で、虎の姿を見せて咆哮しましたが、その時の気持ちを教えてください。
R:さよなら・・・さよなら・・・、袁傪への、家族への、そして、人間としての俺との最後の別れだと・・・
李徴の「さよなら、さよなら」をきいたとき、教室には、静寂そして、深いため息がもれました。
それは、李徴の思いを「からだで感じる」ことができた瞬間でもありました。
「山月記をめぐる冒険」を終えたとき、学生達は何を想ったか、感想を少し紹介しましょう。
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・仲間との対話、ホット・シーティングでの語り、一つ一つに新鮮な驚きを覚えました。
目の前にいる仲間が李徴になって語り始めたとき、からだがゾクッとしました。
「カラダ」を使って「死」や「生」を考えたのは、初めてだったので鳥肌がたちました。
・自分では思いつかないようなことを問われ、私の脳にいきなりスイッチが入ったようで、
李徴としての自分が、一生懸命言葉を探し、何度も涙がでそうになりました。
・実際に自分のカラダで李徴を体験したことは大きかったです。
これは、頭で想像するのとはちがう次元のものだと思いました。
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理性や感情レベルにおける、論理的・抽象的な言葉ではなく、
ホット・シーティングという「もうひとつのドラマ」の「語り」だからこそ、
人の心を大きく揺り動かしたのかもしれない、
そのことを「山月記」実践は鮮やかに示してくれたのです。
(青木幸子)