電話無理だよね

<日文便り>
自分もいつの間にか年をとっていき、気がつけば学生と2回り以上差がついた。
20歳になった学生が、「子供のころ思ってた20歳って、もっと大人になってると思ってた」なんてよく言うのだが、それ、30になっても40になってもそうだから。
大人になった自覚なんかないのだが(むしろ、なれてない自覚には事欠かない)、一方で、年々、確実に学生とは1歳ずつ差が開いていく。
自分がちゃんとした大人になれていなかろうと、さりとて学生と同じであるはずもなく、学生たちが育ってきた環境とは、確実に違う世界観が構築されている。それは、簡単に言ってしまえば、世代差のようなもの。
最近思った、「世界における電話の存在」について、ちょっと書いてみよう。

バイト、就活、色々な局面で「電話が苦手」という学生の声を耳にする。
体感として、それが年々増えている。
「バイト先では、電話は積極的に出ろ、苦手とか言って逃げるな、じゃあ出られる人はなんで出られるようになったのか考えろ」なーんて、よく言ってはいるのだが、
電話恐怖症は増加の一途。
それを、「最近の若い人は線が細い」「コミュニケーション能力が云々」って嘆いて見せるのは簡単なのだが、どうもこれ、気の持ちようとか気合と根性とかそういう問題以前に、自分が前提と思っている世界のありようが、今の世代とはもう違う、ってことなんじゃないか、と最近思った。


端的に言ってしまえば、今の世代が生まれてからの20年で、固定電話を通して知らない人と会話するなんていう経験の絶対量は、自分が生まれてからの20年とは、きっと思いっきり違う。
携帯電話出現以前、ただ「電話」と呼ばれていた固定電話は、各家庭にあって、家にいるとかかってきて、お留守番中に出たりしながら、すぐそこにあるものとして、慣れてきた。電話は、個人を目指してかかってくるものではなく、家の固定電話に、家を目指してかかってきて、そもそも出てみるまで誰への電話なのかわからないものだった。だから、とりあえず出たし、相手にとっても当てが外れた子供の自分が、知らない大人と電話口で応対したりも、普通にした。

それがいまや、電話は最初から個人を目指して携帯端末にかかってくるもので、家で固定電話が鳴る、とりあえず出る、なんていう経験は、ほとんどしないで済む。
今の世代にとっては、世界おける固定電話の位置は、昭和世代ほど親しいものではない。そんなことに最近ふと気づいて、そりゃ、不慣れで当然だよな、って思った。

こういった、世界認識そのものの差を自覚しないまま、「電話が苦手」なんて聞くとつい、「根性が足りない」なんて思っちゃう。これが老害の第一歩、落とし穴のはまりはじめか、なんて思う。
考えてみれば、「電話が苦手」なんていうのは、世界のありようによっては「タバコの煙が苦手」なんていうのと似たようなものなんじゃないか。
携帯電話出現よりもっと昔、大人がタバコを吸ってるのが当たり前だった昭和の世界では、会社でも職員室でも、タバコがもくもくしていた。世界そのものが今よりもっと、煙でもくもくしていた。その世界では、良い悪いは別として、いまよりもタバコの煙に慣れている、っていうのが多数派だったろう。
そんな頃、「たばこの煙が苦手」って言う人は、「細けえこと気にする奴だな」って思われたわけで、それって、いまの世界とかなり違う。
それが、世界が変わっていって、タバコの煙が苦手、っていうのは普通のこととして受け入れられるようになった。それが基本ですよね、って。
電話だってそうなんじゃないか。
タバコと違って、電話の健康被害を議論するつもりはないが、それぞれの世界の前提というか、当たり前というか、「慣れ」というかによって、同じ対象でも受け止める重たさってだいぶ違うんじゃないだろうか、って。
極端な話、若い世代にとっては本当に電話による健康被害がある、ぐらいに考えてもいいのかもしれない。いったん。

世界が煙でもくもくしなくなって、そしたら「そりゃタバコの煙って、基本、気になるよね」
っていうのと、
家から固定電話が消えて、そしたら「そりゃ電話って、苦手なのが基本だよね」
っていうのは、その限りそんなに変わらないんじゃないか。

そのように変わった世界をどうとらえ、それでも電話に出ることが求められるならどう対策していくか、っていうのがもちろん課題になるのだが、
そもそもの時点で、そのように世代によって世界が違う、っていうことを忘れちゃってたら、うまくいかないんじゃないか、
しかもそういうのって、案外気づきにくいんじゃないかなって。

前提としている世界の違いゆえの、同じ対象の重たさの違いに思いを致す、っていうのが、他者と関わる時に必要な気がする。関わる他者と、自覚できなくても毎年確実に距離が開いていくのであればこそ。

当たり前の前提を疑う。
無自覚のうちに、ある立場に立っていることをまずは自覚する。
こういうのは言語を研究するときの、いや、モノを考えるとき全般の基本だと思っているが、自分が自分の経験を通してしか世界を認識できないこともあって、どれだけ意識してもなかなか難しい。
そもそも電話のイラスト、って言って、黒電話描いちゃうのも、ある面で特定の世代にとっての前提なんですよね。CDが出てからしばらくの「レコード」とか、電車しかもう走ってないはずの、昭和歌謡の「汽車」とか。
生きた時間が長くなれば、世界もいつの間にか変わるわけで、徐々に自分が前提・基盤とした世界と、いまの世界はずれていく。
足場を疑う。
自分が持っている世界の物差しを絶対的なものと思わない。むしろ自分の物差しはどんどん世界とずれていくことを自覚する。
この先はそういうことを忘れないようにしなきゃ、かなあ、なんて思い始めた。
どうあっても、自分の時間と自分の世界しか生きられないことの限界。
その限界を超えてくれるものとして、ことばが、文学が、あったりするのかな、とこの分野にいると改めて思ったりするけれど。

(須永哲矢)