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【Sanchart】昭和リエゾンセンタープロジェクト成果発表会で報告しました [2020年03月11日(水)]

昭和女子大学と三軒茶屋と世田谷美術館をArtでつなぐプロジェクト「Sanchart(サンチャート)」の2019年度のご報告です。今回で「Sanchart」は8年目となりました。

少し前のことになりますが、2月14日に「2019年度昭和リエゾンセンタープロジェクト成果発表会」がオーロラホールで開催され、歴文3年の北村有唯佳さんと岩﨑由奈さんが「Sanchart」の報告をおこなってくれました。

「Sanchart」の活動は、秋桜祭での展示とワークショップが中心となります。

本年度は世田谷美術館で開催される「奈良原一高のスペイン —約束の旅」展の広報のために展示とチラシの配布をおこないました。また展覧会のテーマに関連させて「闘牛クッキー」を提案し、三軒茶屋の「シュシュクリエ」さんに作っていただき販売しました。

「1年間の成果となる発表の場を設けて頂き、貴重な体験をすることが出来ました。」

北村さんからのコメントです。

さらに昨年に続き、本年度も活動の締めくくりとして有志のメンバーでリーフレットを作りました。自分たちで手分けしながら原稿執筆、編集とデザイン、写真のレイアウト、数回におよぶ原稿の校正、さらに印刷所とのやり取りまでおこないました。頑張って仕上げたリーフレットです。

「サンチャート」は、秋桜祭で展示発表をおこなうプロジェクトとしてだけでなく、来年度からは、テンプル大学ジャパンキャンパス(TUJ)と合同でおこなう「コミュニティ・アート」の授業へと発展していきます。

木下亮(西洋美術史)、鶴岡明美(日本美術史)

『長崎新聞』の手島記者の取材を受けました! [2019年05月26日(日)]

こんにちは、戦後史史料を後世に伝えるプロジェクトです。

2019年5月24日に、吉村知華(歴文4年)、印出也美(2年)の2名で、『長崎新聞』の手島記者の取材を受けました。

手島さんは東京で被爆者運動研究をしているプロジェクトとの点に着目して、本プロジェクトにご興味をお持ちになり、活動の内容と今後の方向性をお聞きにいらしたとのことでありました。

取材を受ける度に思うことでありますが、プロジェクトのことを知らない方に説明しようとすることで、頭の中の考えがまとまってくることが本当によくあります。吉村、印出の2名は翌25日に開催されたノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会総会で、「プロジェクトの今後の方向性」を発表することになっていたのですが、手島さんのご質問に対して答えているうちに、頭が随分整理されました。

昨年度は個別の原爆被害者が自らの被爆体験を受け入れて、「被爆者に『なっていく』」プロセスを研究しました。その成果を土台としつつ、今年度は、1980年代前後に人間の尊厳に関わるような悲惨な被爆体験が体験談として相次いで表にでるようになったことで、被爆体験の共有化が進み、原爆被害者が集団的に「被爆者に『なっていく』」プロセスを次なる研究テーマとしたいとのことをお話ししました。

また運動の中で被爆者意識が形成されるプロセス自体を継承したいとのこともあわせてお話ししました。

お忙しい中、約2時間にわたって丁寧な取材をして下さった手島さんに感謝申し上げます。

『栗原淑江氏談話速記録』を発表しました! [2019年05月06日(月)]

こんにちは、戦後史史料を後世に伝えるプロジェクトです!

すでにブログ記事にしておりますが、2018年9月20日に、長年被爆者運動に関わっていらっしゃった栗原淑江さんへの聞き取り調査をおこないました。そのときのお話しいただいた内容は、被爆者運動の流れや、運動に関わるなかで栗原さん自身の考えが深まってきたことを理解するために、たいへん重要なものでありました。

そこで私たちはインタビュー内容を「栗原淑江氏談話速記録」としてまとめ、2019年3月発行の『文化史研究』に発表いたしました。PDFファイルを添付いたしましたので、どうぞお目通し下さいませ。

戦後史史料を後世に伝えるプロジェクト『栗原淑江氏談話速記録』(PDFファイルはこちらからクリック)

長崎被爆者・木戸季市さんへのインタビューをおこないました [2019年03月27日(水)]

戦後史史料を後世に伝えるプロジェクトです。

2019年3月12日に、長崎で被爆した木戸季市(すえいち)さんへのインタビューを行いました。木戸さんは現在は日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の事務局長をなさっていらっしゃる方であります。

昨年度の私たちの秋桜祭展示のタイトルは「被爆者に『なる』」だったわけですが、その報告をしたときに、「私も三度被爆者に『なっている』んだよ」と声をかけて下さったのが木戸さんであり、その時にオファーして以来、念願かなってのインタビューでした。

木戸さんは5歳のときに被爆なさったのですが、ご自分の記憶と照らし合わせながら、当時の史料を多数ご覧になって、ご自分の体験を客観的にみようとしていらしたことがたいへんよく分かるお話しでした。特に、8人兄弟の末っ子であった木戸さんのお姉さんが、すでに結婚して鹿児島県出水にいた長姉にだした被爆直後の手紙には、木戸家の被爆状況が克明に記されていて、非常に価値のある歴史史料だと思いました。

2㎞の地点で原爆の熱線の直撃を受けたお母さんと木戸さんが、顔などを激しく焼かれたにも関わらず、後から合流したお父さんが「みんな無事で良かった」とおっしゃったことが印象に残っているとのことであり、合流以前にお父さんがみた光景の凄まじさが想像できるとのお話しが印象的でした。

木戸さんご自身も「自分は『幸運』な被爆であった」と語っていらしゃいました。もちろん被爆が「幸運」であったことはありえないのであり、それでも「幸運」と表現する木戸さんは、より爆心地に近い、人間の尊厳が保ちえなかった地域のことを今も学び、胸に刻み続けているのだろう、そしてそこにいた人々との対比で「幸運」とおっしゃるのだろうと感じました。とすると、私たちが木戸さんから学ばねばならないのは、木戸さんのさらに向こう側にあった世界への想像力になります。

だからこそ木戸さんもまた意識的に被爆者に「なって」原爆を語り継ぎ、その責任を問い続けることを自らの責任として引き受け続けていらっしゃるのかと思いました。

また私どものプロジェクトが気にしているのは、「あの日」の体験に加えて、その後の人生の歩みでありました。高校卒業後京都で学生生活を送った後、岐阜で大学の教員をながらくなさってきた木戸さんのお話はたいへん興味深く、予定された時間はあっという間に過ぎてしまいました。

一番のメインでお聞きしたかった「三度被爆者になった話」はまた次回(5月中旬)に伺うことになりました。ちなみに木戸さんが「三度被爆者になった」というのは、一度目(1945年8月9日)、二度目(自分が被爆者だと知ったとき)、三度目(日本被団協に関係を持って被爆者運動に参加し始めたとき)を指すとのことでありまして、私たちのプロジェクトがこだわってきた「被爆者の歴史的形成」の論点にとって、非常に重要なお話しになるかと思っております。

このプロジェクトでも何度かインタビューをしてきまして、時間をかけてお話しを伺うことの大切さがよく分かってきました。次回のインタビューをとても待ち遠しく思っております。

木戸さん、ありがとうございました!またどうぞよろしくお願いいたします!!

「被爆者の声を未来につなぐ公開ミーティング」に参加して [2018年12月18日(火)]

こんにちは、戦後史史料を後世に伝えるプロジェクトです。

「被爆者の声を未来につなぐ公開ミーティング」に参加したメンバーの感想を記します。

今回の公開ミーティングでは、このプロジェクトで必ず当たるであろう壁にあたったかなと思います。「原爆被害の地獄に向き合わないと(被爆者以外の人たちは)被爆者にはなれない」この一言はプロジェクトをやる上で絶対に忘れてはいけない言葉であり、運動史を学ぶ責任や言葉使いの重さなど全てが織り込まれた言葉であると、身が引き締まる想いでした。学生が運動史の研究を行うプラス面も、マイナス面も分かるとても経験として大きい会でした。(吉村知華・歴文3年)

プロジェクトの内容について初めて公の場でプレゼンする機会で、私たちの研究成果を一定感じられた反面、まだまだ課題が多く残っており、原爆問題を扱う責任をもっと強く持たないといけないと思いました。4年後の博物館展示をゴールとしているこのプロジェクトですが、その為にも更なる熱意を持って、史料と向き合っていきたいです。(川古谷奈々・歴文3年)

昨日の公開ミーティングで、もっと被爆者や原爆の問題について丁寧に、慎重に取り組まないといけないなと思いました。4つのブースに分かれて話し合いをしたときに、多くの人から質問やご指摘があったので、「被爆者に『なる』」を、もっと掘り下げて研究していくことが可能なのだなということを実感しました。特に、岩佐さん(ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会)の発言で感じたことが多かったので、吉村先輩も仰っていますが、その時の一言を忘れずに、活動していきたいなと思います。(印出也美・歴文1年)

自分たちの研究を多くの人の前で初めて報告してレスポンスを得たことで、詰めねばならない論点もはっきりしてきました。これからの活動の指針となる良い機会となったと思います。

本プロジェクトの関連記事はS-LABOでまとめて読めます。

「被爆者の声を未来につなぐ公開ミーティング」で研究発表しました! [2018年12月16日(日)]

こんにちは!戦後史史料を後世に伝えるプロジェクトです。

2018年12月15日に武蔵大学にて「被爆者の声を未来につなぐ公開ミーティング~「ノーモア・ヒバクシャ継承センター」の設立をめざして~」」が開催され、私たちは「「被爆者に『なる』のコンセプト着想に至るまで」の報告をおこないました。

11月におこなった秋桜祭展示における議論の軸を、被爆者問題にご関心があるみなさまに、あらためてお話しする時間となりました。70名を超えるご来場者を前にして、とても緊張しましたが、自分たちが学んで来たことを信じて、堂々と研究発表をいたしました。

私たちの他にも「未来につなぐ被曝の記憶プロジェクト」「継承する人をつなぐプロジェクト」「よみがえる奈良県原爆被害者の記録~手探りの掘り起こしから継承へ」の3本の報告がなされ、報告後は休憩を挟んで、別室に移動して、ご来場者からの質問に応える質疑応答の時間となりました。

被害者ではなく、被爆者としての意識を持って主張することを「被爆者に「なる」」と私たちは表現したのですが、そのことばの意味をめぐってたくさんの質問が寄せられました。なかには被爆者からの厳しい意見もありましたが、研究してきた土台がある分、胸を張って応答できたと思います。

たくさんの議論を経て、会の最後にはリラックスして、自分たちの意見を話すことが出来る様になったと思います。

これまでもそうですが、この日のイベントでもたくさんの方と名刺交換をいたしました。まだメンバーの間で、名刺交換した情報の集約はしていませんが、20名以上のかたと新しく知り合い話すことが出来たと思います。

特にこれからもお話しを伺っていきたい方には積極的に追いかけていって、挨拶をしました。

こうした人と人とのつながりの中から次年度の活動の方向性を考えていきたいと思います!

共同研究をおこなって―戦後史プロジェクトA班(小方組)の感想― [2018年12月01日(土)]

こんにちは!戦後史史料を後世に伝えるプロジェクト、A班です。

本年度の活動ではプロジェクトメンバー12名が3名ずつ4班に分かれ、分担して研究を進めました。

私たちの班は、長崎の被爆者である吉田一人さんと、ノーモアヒバクシャ記憶遺産を継承する会の栗原淑江さんが人生の各段階でお考えになってきたことを明らかにする研究を受けもちました。

夏に研究対象が決定してからは、各人の著書や新聞記事などを中心に史料を集めていきました。事前の準備をおこなった上で9月20日には栗原さん、9月25日には吉田さんに対する聞き取り調査を行い、ご本人の口から、ご自身の経験や、これからを生きる世代に伝えたいことなどを伺いました。

特に、吉田さんの「被爆者に『なる』」というお考え、また、栗原さんの被爆者と共に歩む姿勢は、戦後史プロジェクト全体に大きなヒントを与えてくださいました。

以下では、秋桜祭での展示を終えた班員の感想をご紹介いたします!

秋桜祭実行委員会とのかけもちが難しく、プロジェクトに全力投球しきれなかった点には残念なところもありました。被爆者問題という重たい内容だったので、秋桜祭の展示にはほとんど人が来ない可能性もあると思っていました。しかし、実際にはたくさんの方が展示を足をお運びくださり、感想を書いてかれる姿を見てうるっとしました。辛いことも多かったですし、難しいことについて意見を求められ悩むこともありましたが、今まで頑張ってきてよかったと心から思いました。

そして、新聞記事を見てご来場になった被爆者の方々との出会いがあり、文化祭が終わったあともお手紙を頂いたりと、展示をしたことで「人と出会う喜び」を感じることができました。

ご高齢になった被爆者からの皆さんからは、ご自身のお持ちになっている史料や書籍が失われてしまうことに対する不安を抱えていらっしゃることを直接伺いました。やはり私たちのやっている史料の保存活動は今後も続けていくべきことなのだと再確認出来ました。

また、今日までの過程で先生や先輩方から研究とはなんたるかを学ぶこともできました。ありがとうございました!

素晴らしい仲間たちと日々研究をするなかで、沢山のかけがえのないものを得ることが出来ました。打ち上げの席上で泣いている吉村先輩(プロジェクトリーダー)に寄り添う小方先輩、川古谷先輩の3人の姿が本当に素敵で2年後にこんな風になれたらいいねという話を印出さんとしました。来年度もしっかり考えて頑張っていきたいと思っています。

(成瀬萌・歴史文化学科1年)

被爆者のことはプロジェクトに関わるまでは教科書レベルのことしか知りませんでしたが、調査をしたことで、被爆者が被爆後に起こした行動が、内容が濃く驚きました。特に、被爆問題が過去の問題ではなく今の問題であるということが分かったことは大きな発見でした。この先、どのようなことを調べていく必要があるのか、まだ明確になっていませんが、秋桜祭での展示「被爆者に『なる』」を発展させ、将来の研究に繋げていきたいと思います。

(印出也美・歴史文化学科1年)

このプロジェクトが始まるまでは、被爆者が年々減っていく中で「あの日」の記憶を風化させないことこそが、私たちのすべきことだと思っていました。しかし、吉田さんと栗原さんへの聞き取り調査や、メンバーとの熱いミーティングを重ねて、それだけでは不充分だということがわかりました。原爆被害は「あの日」で終わってはおらず、これからを生きる私たちは、原爆問題に当事者意識を持って向き合わなくてはならないということ、また、そのためには原爆被害者の軌跡を学ぶことも重要なのではないかと思うようになりました。私は3年生なので、これでプロジェクトは引退となりますが、これからも学び続けていきたいと思います。

(小方愛可・プロジェクトA班班長・歴史文化学科3年)

多気町PJメンバーにオススメされた伊勢いもを食べてみる。 [2018年11月29日(木)]

こんにちは、松田忍です。

10月のオープンキャンパスで管理栄養学科2年のKさんたちと一緒に、グリーンホールで高校3年生向けのトークイベントをおこないました。楽屋待機中にKさんといろいろとお話ししたのですが、Kさんは多気町応援プロジェクトに参加していらっしゃるそうでして、多気町の名産品「伊勢いも」を猛プッシュされました。「芋界最強のねばりがある芋」ですり下ろして食べると美味しいらしいです。

そこまでいうのならばということで、ふるさと納税にて、取り寄せてみました。いもだからダンボール箱にはいって届くのかと思いきや、立派な箱に入っています。さすが高級食材。

蓋を開けても、高級食材なのですぐに姿を現さない!なんとおがくずで、丁寧に包まれています。こんないも見たことない笑(2個食べたあとの写真なので、ちょっと量が減っていますが、最初は一杯一杯に入っていました)。

いよいよ「伊勢いも」とご対面。リンゴよりでかい!!ゴツゴツしてます!

もっともオススメの食べ方がとろろ汁とのこと。すり下ろして、干し椎茸のだし汁で引き延ばしていただきました。

これは美味しい!山芋をはじめとして、世の中に粘る芋は数あれど「伊勢いも」は別格でした。粘りの力が強いこともさることながら、コクとのどごしのハーモニーが最高です!ご飯にかけて食べても美味しいような気がしますが、むしろご飯の美味しさを食ってしまうほどの存在感があるコクです。

多気町を応援すべくKさんが一生懸命に活動なさっている理由の一つがわかりました。

多気町応援プロジェクトのメンバーには歴文生も2人入っています。管理栄養学科のKさんは食の観点から地域の食材を考えているそうですが、歴史もまた地域を捉えていくときの大事な軸になりますし、地域活性化系のプロジェクトで、歴文生が活躍するチャンスはたくさんあると思います。また学科を超えて意見交換することで、自分の強みが分かったり、新しい考え方に出会うチャンスにもなるでしょう。

SLABOには昭和女子大学がおこなっているたくさんのプロジェクト活動の報告がつまっています。いままだ何も参加していないというみなさんも、来年度なにかプロジェクトに参加してみませんか?もちろん、戦後史資料を後世に伝えるプロジェクトもありますぞ!(宣伝笑)

戦後史史料を後世に伝えるプロジェクトが『毎日新聞』に掲載されました。 [2018年11月26日(月)]

戦後史史料を後世に伝えるプロジェクトです。

私たちの活動が2018年11月25日づけの『毎日新聞』(東京都内版)に取りあげられました!

長崎市街地巡見 [2018年11月25日(日)]

こんにちは、松田忍(日本近現代史)です。

11月22日~23日と光葉同窓会長崎県支部会に出張してきたのですが、出張したからには空き時間に現地を歩き倒す「歴文イズム(=手で考え、足で見る)」を発揮してきました。

特に「戦後史史料を後世に伝えるプロジェクト」に関連して、長崎の原爆関連遺産を見て回りました。重視したのは公共交通機関やタクシーを使わず、「自分の足で歩くこと」です。

【11月22日夕方~夜】

22日の夕方に長崎駅前のホテルにチェックインし、すぐに外出して暗くなるまで歩きました。

浦上駅で亡くなっていた母子の写真が、吉田一人さんが「被爆者として生きること」を決心するきっかけになったんだなぁと思い出しながら、浦上駅から出発します。

原子爆弾落下中心地碑を出発点として、北へ向かって歩きました。中心地碑の近くには、崩壊した浦上天主堂の遺構も移築されています。

そこから北に進み、平和の泉から平和祈念像を臨みます。

更に北上して戦後再建された浦上天主堂。浦上天主堂をはさんで、爆心地の反対側には、被爆後に崩壊した旧浦上天主堂の鐘楼が、当時のままの姿で残されています。

長崎駅前に戻るときには、茂里町を通って戻りました。茂里町は長田孜さんが勤労動員にかりだされ、魚雷を磨く仕事をしていた三菱の工場があったところです。原爆が投下された8月9日にはたまたま長田さんは福岡県に帰省していたため、ご無事だったのですが、「もし帰省していなかったら即死だったね」とおっしゃっていた意味も実際に歩いてみるとよく分かりました。原爆落下中心地から遮るものなく、数百メートルの位置に茂里町がありました。

【11月23日8時~10時】

翌朝は早朝から起きて、8月9日における吉田一人さんの行動に沿って歩いてみました。8月9日長崎駅へ切符を買いに行って、中川町まで戻ってきて立ち話をしているときに吉田さんは被爆しました。私も長崎駅から東の方へ新中川町の電停まで歩きます。ざっと20分くらいでしょうか。

ただ長崎駅だと爆心地から見渡すものがないのに対して、中川町だと間に金比羅山があります。標高400メートル足らずの小高い丘ですが、原爆の威力のうち熱線の直撃のみは避けられ、金比羅山に助けられたという吉田さんのお話の意味がよく分かります。それでも金比羅山を超えてきた爆風に体ごと吹き飛ばされ、塀に打ち付けられたと吉田さんはおっしゃっていたことも思い出します。

【11月23日11時30分~14時30分】

そのあと、ホテルニュー長崎の光葉同窓会長崎支部会に出席しました。

私からの挨拶のなかでは、昭和女子大学が現在も力強く発展し続けており、多くの受験生の皆様に選ばれる大学になっていることをお話ししました。またグローバル、プロジェクト、キャリアの3本柱で学生たちを育てる軸になっていることをお伝えする中で、戦後史史料を後世に伝えるプロジェクトで、学生たちと被団協関連史料の分析をおこなっていることをお話しいたしました。

挨拶後、同窓生から「ここに集まっている同窓生の中にも何らかの意味で原爆とつながっている人がたくさんいるのよ」とのお話をうかがいました。

吉田さんや長田さんの話も含め、その土地に眠る記憶を強く感じた出張でありました。プロジェクトのメンバー学生たちと実地を歩いてみる旅行を計画してもいいかなと思っております。