英コミ教員の重松です。私の専門は学科のなかでは少し変わっていて、研究者としては日本近代史、教員としては日本研究、留学準備科目を主に担当しています。
休暇前に九州の佐賀県へ研究出張に行きました。佐賀城本丸歴史館で、大学院同期の講演があり、翌日は勉強会に参加。くずし字がなかなか読めず、ウンウンうなってばかりでしたが、古い仲間と勉強するのは楽しいものです。
今回の出張は、最終日の予定が変わったので、急遽、足を伸ばして大分県日田市に行きました。私の授業
Japan in the World(*)を履修した学生は覚えているでしょうが、「あの」小鹿田焼の故郷があるところです。「小鹿田」は「おんた」と読みます。民芸運動、ひいては日本のものづくり文化のなかで、大変重要な意味を持つ場所です。
実際に行ってみて、あらためて気づかされたことがいくつかあります。まず、交通の便が想像していた以上に悪い!
JR日田駅から車で30分かかります。どうやって重い陶器を出荷していたのか、気が遠くなりました。
また、ひとつの家の同じ敷地のなかで、土づくり、成形、施釉、登り窯での焼成、さらに販売まで行っておられる。近代経済の根本は分業による効率化ですけれども、それが始まる前の「家内制手工業」が残っています。日本の農村で分業化が進むのは江戸時代中期以降ですから、日田の皿山の風景は、さらに古い江戸初期や室町時代に近いわけです。
さて、私は小鹿田焼陶芸館で、イギリス人陶芸家のバーナード・リーチが当地でつくった大皿を見ました。まず、皿をかこむ「飛び鉋」の模様が大雑把で、意図的だったのか、技法に不慣れだったためか、よくわかりません。『バーナード・リーチ日本絵日記』(講談社学術文庫)によると、風邪を引いたリーチが実際に作陶したのは、わずか数日だったようです。そして、小鹿田焼では絵付けは普通行わないのに、リーチは得手としていた古代ギリシャ様の動物を描き、さらに「1954」と滞在した年号まで書き入れています。(鹿を選んだ理由は、小『鹿』田焼だからでしょうか?)
この小鹿田焼としては極めて型破りの皿を、良いとするか否かは人それぞれです。私自身は、リーチの皿には、古い手仕事への愛と敬意、それを踏まえたうえでの自由が見られるように思いました。このように文化のはざまに生まれるモノ・コト・ヒトを、より深く考察し、価値を見出すことが、英語科で日本文化を学ぶ意義のひとつと私は考えています。
(土を砕く『唐臼』。「残したい日本の音風景100選」に選出。黒沢明の映画『夢』のラストシーンを思い出しました。)