「昭和女子大学って、『昭和』の時代にできたので『昭和』という名前になったのですか?」と時々聞かれます。この質問にお答えするために、まず、本学の歴史を辿ってみたいと思います。
大正9年9月10日に「日本女子高等学院」が東京都文京区に創設されたのが本学の始まりです。ここでは「昭和」の名前はありません。大正11年4月に、東京都中野区東中野に校舎が移転され、「附属高等女学部」が開設されました。さらに大正15年6月5日には、東京都中野区上高田に「日本女子高等学院」と「附属高等女学部」の校舎を移転。昭和2年7月29日には「財団法人日本女子高等学院」が設立され、その時に、附属高等女学部を「昭和高等女学校」と改めたのです。
その後、昭和20年4月と5 月に、戦災のため全校舎が罹災し、昭和20年11月9日に「日本女子高等学院」と「昭和高等女学校」は、旧陸軍近衛野戦銃砲兵連隊跡である世田谷区太子堂に移転しました。大学に「昭和」の名が付くまで、もう少し歴史が続きます。
昭和21年4月1日に本学は「財団法人東邦学園」を併設し、その傘下に、「日本女子専門学校」を開校し、「日本女子高等学院」の課程を引き継ぎました。昭和22年4月には新学制の元、「昭和中学校」を開校し、23年4月には「昭和高等女学校」を「昭和高等学校」と改めました。大学に昭和の名前がつくまであと少しです。
昭和24年4月1日に、新学制によって「日本女子専門学校」を「昭和女子大学」と改め、学芸学部を開設、さらに、昭和25年には短期大学部を開学。翌年の昭和26年に「財団法人東邦学園」も「学校法人昭和女子大学」と改め、「財団法人日本女子高等学院」も「学校法人昭和高等学校」(昭和38年 4月に本学が併合)と改めました。
(昭和女子大学開学当時の正門〈今の正門と同じ場所〉)
ということで、大学の名称は、大正9年「日本女子高等学院」、昭和21年「日本女子専門学校」そして、ついに昭和24年に「昭和女子大学」となったという訳です。
さて、「昭和」の名称については、『昭和女子大学70年史』(p.253)に次のように書かれています。
「教職員と学生から日本、富士、敷島、武蔵野、東邦、昭和と様々な名称が出され、活発な意見を交換した。この結果「従来の附属高等女学校の校名でもあり昭和時代に生まれた大学であるが、何よりも『昭和』」の中に含まれている本旨(百姓昭明 協和萬邦)が、新時代への脱皮と真の民主主義を象徴的に包含しているから」ということで「昭和女子大学」に決定した。」
歴史的には、初めて本学園で「昭和」の名称が用いられたのは、昭和2年のことで、附属高等女学部を「昭和高等女学校」と改めた時です。この時、なぜ「昭和」としたか。前年に元号が「昭和」と変わったことや、後の大学の命名と時と同じように、孔子が編纂したとされる中国の古典『書経』の中の「百姓昭明、協和萬邦」が元となったのかもしれません。
『昭和女子大学70年史』の記録から、大学や学園の「昭和」の名称は、「百姓昭明 協和萬邦」に由来していることが読み取れます。四書五経の一つである『書経』の初めにある尭典(伝説の王、尭(ぎょう)を讃えた文章)の一説、「九族既睦平章百姓 百姓照明協和萬邦」「九族(きゅうぞく)既(すでに)睦(むつ)まじくして、百姓(ひゃくせい)を平章(べんしょう)す。百姓(ひゃくせい)昭明(しょうめい)にして、萬邦(ばんぽう)を協和(きょうわ)す。」から引用されています。前半の「平章」はそれぞれの分を弁(わきまえ)ることを意味し、後半には、「百姓」(人々それぞれ)が「昭」(徳)を「明」(明らか)にすれば、「萬邦」(世界中)の「協和」(共存繁栄)がはかられる、と書かれています。「百姓昭明」の「昭」と「協和萬邦」の「和」で「昭和」となりました。ですから、「昭和」は「すべての人々が知徳を磨き、世界が共存繁栄するために互いに協力和合していきましょう」という意味になるのではないでしょうか。
ところで、私の父は「明治」、母は「大正」、私は「昭和」生まれ。そして今は「平成」。「明治」は『易経』の「聖人南面して天下を聴き、明に向かいて治む」、「大正」も同じく『易経』の「大いに亨(政治)を正すを持って天のみちなり」、「平成」は『史記』の「内平かに外成る」と『書経』(偽古文尚書)の「地平かに天成る」がそれぞれ出典とされています。日本の元号の多くは中国の古典が出典の由来となっているのですね。「平成」の元号も既に江戸末期に「明治」と共に候補になっていたのだそうです。
(今の正門)