本学の式典で、創立者人見圓吉先生の声で必ずお聞きする「開講の詞」。その由来をご存知ですか。実は、私が昭和41年に大学に入学してから昭和46年3月に卒業するまでの間、この詞を聞いたのは、たった1回だけでした。その理由は・・・。
「開講の詞」は本学の前身、日本女子高等学院が始まる前年の大正8年4月に設立された日本婦人協会の「設立趣旨」として配布されたようです。日本女子高等学院が開設された大正9年9月10日からは、その趣意書の詞が本学の建学の精神を表す「開講趣意書」となりました。
人見圓吉先生は、創立50周年の記念式で、「東京の山の手の町を歩いて塾に適当な家を探しました。当時の東京には空き家が多く1時間も歩けば4,5軒位は探し出せたものであります。しかし折角探し出しても帯に短かくたすきに長く、適当な家はなかなかなく、ようやく探し当てたのは1年余りの後のことでありました。その玄関の左側に「日本女子高等学院」の表札を出しました。それが大正9年9月10日で、(開講趣意書が)できたのはその日の午後2時ごろでありました。こうしてわが昭和女子大学の前身はこの世に生れ出たのであります。」と話されています。
(「日本女子高等学院」の表札)
しかし、その後、暫くの間、「清き気品」「篤き至誠」「高き識見」の「校訓三則」や「真善美」の詞を本学の建学の精神を表すものとして良く聞くようになりました。
『学報』は本学の歴史を振り返るのに貴重な資料となるものですが、昭和45年の創立50周年記念式の記事に、「開講趣意書」として、また、昭和47年6月の第52回創立記念式では現在のように「開講の詞」として掲載されています。このころの学報には、入学式で「開講の詞」を聞いたという学生の感想もあるので、創立50周年以降に、現在のように、日本女子高等学院の「開講趣意書」が「開講の詞」として式典などで朗読され始めたのではないでしょうか。
「日本婦人協会趣旨」と「開講の詞」は、全く同じではありません。以下の「開講の詞」の該当箇所を赤字にし、青字で「日本婦人協会趣旨」を入れてみます。ちなみに、大正9年9月発行の坂本由五郎元本学教授が編集発行人であった雑誌『抒情文學』第2巻7号にも「日本婦人協会趣旨」は掲載されていますが、以下で参考とした『学報』の記載とは少し異なる部分もあるようです。
開講の詞(開講趣意書)
夜が明けようとしてゐる。
五年と云ふながい間、世界の空は陰惨な雲に掩はれて、人々は暗い檻の中に押し込められて、身動きもできなかった。けれど、今や、一道の光明が空の彼方から仄めき出して、新らしい文化の夜が明けよう(まさに明け放れよう)としてゐる。人々は檻の中から這ひ出し、閉ぢ込められた心を押し開いて、文化の素晴らしい光(暁光)を迎へようとしてゐる(勢ひ立ってゐる)。
夜が明けようとしてゐる。
海の彼方の空にも、わが邦(邦土)の上にも、新らしい思想の光が、ながい間漂うてゐた(ふてゐた、)くろ雲を押し破って、眩しい(目眩しき)ばかり輝き出そうとしてゐる。それを迎へて叫ぶ人々の声をきけ(聞け)。霊の底まで鳴りひびく声を、力強いその叫びをきけ(聞け)。既に目ざめた(目覚めた)人々は、文化の朝を迎へる可く、身にも心にも、仕度が十分調ってゐる。
夜が明けようとしてゐる。
われ等(ら)の友よ。その愛らしき眼をとじ(ぢ)たまま、逸楽の夢をむさぼる時(可き)はもう既に去った。われ等は、まさに来る文化の朝を迎へるために、身仕度をとり急がねばならぬ。正しき道に歩み出すために、糧を十分にと(十分の糧を採)らねばならぬ。そして、目ざめ(目覚め)たる婦人として、正しき婦人として、思慮ある力強き婦人として、文化の道を歩み出すべく、互ひに研き合はなければならない時が来たのである。
大正九年九月十日 日本女子高等学院
(開講の詞)
初代理事長の人見圓吉先生がご逝去されたのが昭和49年2月ですから、私たちが式典でお聞きする圓吉先生の肉声は、その前に録音されたものだということになります。また、昭和55年2月の創立者記念講堂の完成と共に、「開講の詞」の碑が入口の壁に掲げられましたので、圓吉先生の肉筆の詩も録音よりも前に書かれていたものでしょう。
次に「開講の詞」を聞く時には、ぜひ、本学の前進である日本女子高等学院の扉が開かれるにあたって、詩人でもいらした人見圓吉先生がうたいあげた力強い「開講の詞」の原文にも思いを馳せてみたいと思います。