保坂都先生です。山梨県のご出身で、女学校に進学する人も村で一人いるかいないかの時代であった1923(大正12)年に上京され、親戚の方や近所の方々が村はずれまで見送って下さり、涙ながらの別れをしたというお話を私が大学生の時にお伺いしたことがあります。
当時の日本女子高等学院国文科を卒業後、附属高等女学部の講師もされ、その後大学で教鞭をとられました。いつも着物姿でいらしたことを、古い(私もその一人ですが)卒業生の皆さんはご存じでしょう。短めに和服をお召しになり、身のこなしが素早く、小さなお体でどこからそんな力が湧くのかと不思議なくらいでした。常に凛とした態度で、学生が怠けたりすると厳しい叱正が飛びました。「幸い」なのか、「残念」なことなのか、私は、当時英米文学科で学んでいたので、直接、先生にお教えいただくことはほとんどありませんでした。現在の1号館の場所にあった、大学本部館の1階が教授室で、どうしても用事があってその部屋に入らなければならない時は、保坂先生が着物姿で椅子の座席の上にきちんと正座されているのを横目で見ながら、呼び留められないように、そっと、出入りしたものでした。
1904(明治37)年9月20日のお生まれで、教育、研究一筋に歩まれましたが、初めての海外旅行の折のエピソードは、先輩たちからよくお聞きしています。大学のある教員がハーバード大学の夏期講習に出席するということで、1960年にご一緒されたそうです。横浜港から船で出発。この頃、勿論、昭和ボストン校はありませんでした。珍しい洋服姿のお写真を一枚だけ拝見したことがあります。帰りはヨーロッパから、日本の船で神戸港に入港し、汽車で東京に戻られたそうですが、やっと日本語が使えたときの喜びは格別だったそうです。
もう一つ、保坂先生の思い出は、「黒パン」です。常に黒パンしか召し上がらないという噂でしたが、多分徹底した健康管理をされていたのでしょう。
学園草創期の苦難の時代を支えてくださり、研究活動も精力的にこなされ、國學院大学から文学博士の称号を授与され、本学卒業生初の博士号授与者となられました。「なせばなる なさねばならぬ なにごとも ならぬは人の なさぬなりけり」を座右の銘として、生涯学園の発展に尽くされた、大先輩のお一人です。
保坂先生は、2002(平成14)年9月に亡くなられました。写真は、同年の10月24日の「お別れの会」で頂いたものです。もう、あれから16年も経ってしまったのですね。今の昭和をどこかでご覧くださっているでしょうか。