創立者が理想としたトルストイの教育

 レフ・トルストイは、知識を詰め込むことに重点を置いた教育に反対し、子どもたちが自ら問題意識を持てるよう手助けすることが教育の本質であると考え、ヤースナヤ・ポリャーナに農民の子どもたちの学校を建てて自ら教えることでそれを実践しました。そして、人と人、自然と人間との調和を大切にし、平和を愛し、仲間を互いに尊敬し、労働や奉仕をいとわないことを教えました。子どもたちが自然に関心を持ち、さまざまな感動を得ることができるように、野外での教育にも力を入れました。
 昭和女子大学の歴史は、詩人人見圓吉が、レフ・トルストイの理想とする、「愛と理解と調和」に教育の理想を見出し、緑夫人とともに女子教育の道を歩みはじめたことからはじまりました。
 創立者は『学園の半世紀』にこんなことを書いています。「家内がしきりにすすめたのが、トルストイの学校である。彼は軍職を退いてヤースナヤ・ポリャーナに塾のような形の学校を建て、午前中に学科を授けて午後は近隣に病める者、傷ける者、貧しき者、老いたる者など(中略)の家を訪ねて、食を与え、衣を与え、看病し、掃除し、洗濯するなど養護に当たった。人々はこれをよろこび感謝したと言う。こんな学校があって、愛と理解と協調を旨とするならば、どんなに楽しい事であろう。(12頁)」

 トルストイは『国民教育論』(1984年 トルストイL. N.著 昇曙夢、隆一訳 玉川大学出版部)に、その教育の理想を次のように書いています。「上から強制的につくられた学校は、羊の群れのための羊飼いではなく、羊飼いのための羊、なのである。学校は、児童がつごうよく勉強できるように作られているのではなくて、教師がつごうよく教えられるように作られている。」そして、教育を授けるものにとって、何が良くて何がまずいのかがわかるために、教育を受ける側は、自分の不満を表明する完全な権利を持つべきであり、教育学の基準はただ一つ自由のみである、とも語っています。
 子どもたちに自由を与えるというのは、子供たちが好き勝手にやる、という意味ではありません。子供たちの天性の可能性を引き出す、伸び伸びとした教育を行うことだと思います。

 さて、トルストイはどんな場所で教育をしていたのでしょうか。
 トルストイの最初の学校は、ヤ―スナヤ・ポリャーナのトルストイ邸にあります。

最初のトルストイ学校

 トルストイは、モスクワから165 km南にある、ウパ川沿いに位置する都市、トゥーラの郊外の豊かな自然に恵まれたヤースナヤ・ポリャーナで、伯爵家の四男として生まれました。祖先は父方も母方も歴代の皇帝に仕えた由緒ある貴族で、富裕な家庭ではありましたが、2歳の時に母親を、9歳のときに父親を亡くし、引き取ってくれた祖母も翌年亡くし、後見人になった叔母もその後しばらくして他界。幸せな幼年時代とは言えませんでした。入学したカザン大学も1847年に中退し、この年、広大なヤースナヤ・ポリャーナを相続し、農地経営に乗り出しましたが、これにも挫折しました。1859年、27歳の時に、コーカサス戦争から戻り、領地に、学校を設立し、農民の指定の教育にあたりました。強制を排除し、自主性を重んずるのがその教育方針でした。翌年から1861年まで、再び西欧に旅立ち、ヴィクトル・ユーゴー、ディケンズやツルゲーネフも訪問しています。1862年には、トルストイの活動を危険視した官憲による妨害で、トルストイの学校は閉鎖されてしまいました。しかし、トルストイの教育への情熱は生涯変わりませんでした。
 同年34歳で18歳の女性ソフィアと結婚し、これ以降地主としてヤースナヤ・ポリャーナに居を定めることになり、夫婦の間には9男3女が生まれ、ソフィア夫人はトルストイの粗原稿を浄書するのを常としていたそうです。『戦争と平和』執筆終了後、『アンナ・カレーニナ』の執筆にかかる前に、トルストイは自ら初等教育の教科書『アーブズカ』を作成しました。1872年に完成し、1874年には国民学校図書として認可を受けています。『トルストイのアーズブカ 心をたがやすお話』として本学に事務局がある、日本トルストイ協会が日本語訳を新読書社から出版しています。
 世界的名声を得たトルストイでしたが、『アンナ・カレーニナ』を書き終える頃から人生の無意味さに苦しみ、自殺を考えるようにさえなりました。ヤースナヤ・ポリャーナでの召使にかしずかれる贅沢な生活を恥じ、夫人との長年の不和にも悩んでいました。ついに1910年に家出を決行しましたが、鉄道で移動中悪寒を感じ、小駅アスターポヴォ(現・レフ・トルストイ駅)で下車し、その1週間後の11月20日に駅長官舎で肺炎のため、死去しました。82歳でした。葬儀には1万人を超える参列者があったといわれ、遺体はヤースナヤ・ポリャーナの静かな森の中に埋葬されています。

ヤ―スナヤ・ポリャーナのトルストイ(1828~1910)の墓
トルストイ邸入り口の門
トルストイの家(現在は博物館)
博物館の一室

 また、博物館には、屋敷の他に、トルストイが設立した学校や、トルストイの墓地を含む公園などがあります。第二次世界大戦の間は、この地所はドイツ軍に占拠され荒らされてしまいましたが、貴重な遺品などはそれ以前にソヴィエト政府が別の場所に移し保管していたため、戦後、屋敷はトルストイが生きていた頃と同じように復元され、ヤースナヤ・ポリヤーナは、旅行者に非常に魅力的な場所となっています。 
 創立者は『学園の半世紀』で、こんなことも書いている。「これから迎えようとしている社会の新しい五十年は、どのようになってゆくのか想像もつきません。」
 いよいよその五十年目に当たる創立100周年を迎えます。皆さんは、その先の100年後、どんな昭和女子大学の姿を想像しますか。どんな昭和女子大学にしたいですか。