ホイアン日本橋修復工事 文化遺産国際協力コンソーシアムで文化庁より現状報告

11月12日(日)、東京文化財研究所で開催された文化遺産国際協力コンソーシアム第33回研究会で、文化庁稲垣智也文化財調査官より「ホイアン日本橋の保存修復における技術協力と人材育成」の講演がありました。たいへん詳細に日本橋修復工事の現状、今回の協力の意味等について報告されました。報告書や講演ビデオがコンソーシアムより限定公開される予定だそうです。

6月7日(水)、文化スポーツ観光省・ホイアン市により日本橋修復工事現場でワークショップが開催されました。ベトナム全国から82名の専門家も集まり、日本文化庁豊城氏らも参加して熱心に修復工事についての議論が行われました

ホイアン日本橋の修復工事がベトナムでたいへん注目を浴びている。ベトナムで最も一般的なVietNamNEWSも大きく取り上げ、ホイアン遺跡管理事務所PhamPhuNgoc所長(東京大学大学院建築学修士)と本学・Hiromichi Tomodaのコメントを掲載。

日本橋修復工事入札の結果、KimAn建設が受注、12月28日(水)に開幕式が行われました。開幕式はNHK総合TVの国際報道で取り上げられました。以下から報道が見られます。NHK NEWS

ホイアン日本橋は1553年、西の中国人町と東の日本人町を結ぶため日本人町の入り口に建立されたとされるが定かではない。ホイアンに日本人が本格的に渡航するのは豊臣秀吉の朱印状発給から。徳川幕府の朱印状は1604年からで、1635年には鎖国令により在外日本人の帰国が禁止され日本人町は衰退に向かう。今回、ホイアン市が収集した資料から以下が推測される。1603年「南越版図」に「会安橋」として屋根付きの橋が川に直面して描かれ、1686年「天南四至路図書」ではホイアン橋は川から離れる。1768~1839年「乾坤一覧」ではホイアン甫(村)がホイアン庫(倉庫)となり衰退している。左は「茶屋新六交趾国貿易渡海図」に描かれた日本人町。大胆に推測すると、17世紀前半にはホイアン橋の西に中国人町、東に日本人町があったが、17世紀末には日本人町は中国人町に吸収され、その中国人町も1775年の西山党の乱の大火で廃墟となる。中国人達は川の堆積により船着き場の機能を喪失し廃墟となった中国人町を捨て、昔あった日本人町を越えて東に位置を大きく移動し、船の着く現在のチャンフー通りに中国人町を再建したのではないか。この仮説に基づくと、再建されなかった日本人町は現在の日本橋の西側となり、ディンカムフォやミンカイ通りが日本人町と関係が深いとする歴史考古調査の結果と整合することになる。

修復に際しホイアン市は日本橋の古写真を収集分析、左は1900年前後のこの写真が最も古いとしています。現在の日本橋の姿とは大きく変わり、橋脚が独立し橋部分はすべて木造、側壁には装飾があります。右は1950年前後の日本橋。橋の道路部分が平に改造されています。いつの時代に戻すか議論があり、豊城前文化庁監査官から「橋は各時代にあわせて修理を重ねてきたため、ある時代にあわせて形を整えることはできず、形としては現状修理が妥当。」との意見にベトナム側も同意しました。

イアンの伝統家屋の損傷は、多くの場合シロアリによる蟻害である。そのためには雨漏りを最小限にするための工夫(アスファルトルーフィングを用いる、瓦の焼成温度を上げる他)が試験されてきたが、今までは文化財保存を優先し採用されてこなかった。日本橋ではホイアン市・ベトナム文化省・文化庁の協議が行われるに際しどのような議論があるか楽しみである。

 

2.橋脚基礎部分の足固めをし、橋本体の修復工事に入る。水止めの土手と仮設鋼管ブレースを取り外し竣工とする。1.橋本体木部を解体し、仮設の鋼管ブレースにより橋脚を保護し、橋脚の足元まで浚渫する。

 

 

ホイアン市から日本橋の修復工事への協力要請があり、日本大使館・文化庁・JICAと昭和女子大学が参加。8月26~30日、ZOOMでベトナム文化省・日本文化庁・日越修復専門家、現地でホイアン市・JICA・昭和女子大学が参加し日本橋修復について検討を行いました。また、ホイアン市は日本橋の歴史(修復工事を含む)を調査し出版、貴重なデータを公開しました。第一回検討会では橋脚の補強が大きな検討課題となりました。(💚を押すと工事推定ビデオが見れます。)1木部解体工事(1分) 2杭打ち直し案(2分) 3部分杭打ち直し案(1.5分) 4ア橋脚補強案(2分)