<日文便り>
今回は、私の研究している泉鏡花のことを、宣伝も兼ねて。
泉鏡花は石川県金沢市の生れですが、その生家跡には今、泉鏡花記念館があり、
常時、展覧会を催しています。
今年は「百年前の鏡花 十年毎の鏡花」というテーマで、
「1907 明治40年の鏡花」(5/26~9/24)
「1917 大正6年の鏡花」(9/30~12/3)
「1927 昭和2年の鏡花」(12/9~来年5/13)
それぞれの時期の鏡花の活動を紹介する、という企画があります。
鏡花は、明治・大正・昭和の三代にわたって、旺盛な創作活動をしていたので、
こうした企画が成り立つわけです。
私はこのうちの、「1917 大正6年の鏡花」の期間中の10月22日(日)に
記念館の文学講座で、「大正時代の鏡花の展望」という題名の講演をすることになっています。
ちょうど「百年前の鏡花」のテーマにあたる時期なので、責任が重いのだけれど、
話そうと思っていることの中心は、多産な泉鏡花の創作活動のうちでも、
この大正時代が、もっとも豊かに作品を送り出していた時期であるということです。
この時期には、「芍薬の歌」(大7・7~12)、「由縁の女」(大8・1~10・2)
の長篇小説と、「夜叉ケ池」(大2・3)「海神別荘」(大2・12)
「天守物語」(大6・9)などの幻想的な戯曲が発表されていて、
鏡花の創作の充実した期間であったことは、疑いないからです。
39歳から53歳までのこの時期に、なぜそれが可能だったのか、について
お話ししてみるのが、文学講座の眼目になります。
詳しい話の組み立ては、これから夏休みを使って考えようと思いますが、
確実に言えるのは、この時期、鏡花の文学を迎え入れ、鏡花を支える人々がいた、
ということです。
作家で鏡花を支持し、鏡花に近づいていった人たちは、たとえば、里見弴、
水上瀧太郎、久保田万太郎、これらの作家を知らない人も多いでしょうから、
良く知られた作家で挙げれば、谷崎潤一郎、芥川龍之介などの人たちです。
谷崎と芥川は、大正時代の文学の、いわばアイドルスターですから、
このアイドルが尊敬し、支持する作家として鏡花がクローズアップされ、
また当の鏡花もこれに力を得て、創作に励んだ結果、
「多産」の大正時代が現出したのではないか、というのが、
今のところの私の考えです。
10月までには、もっと説得力のある考えをご披露できれば、と思っている次第。
この鏡花記念館の展示のポスターが、1号館3階のエレベーター前の
掲示板に貼ってありますので、是非ご覧ください。
(吉田昌志)