「受験生の皆さんへ」というテーマで書いちゃいそうなこと

受験生のみなさんへ。
3月に入り、そろそろ今年の受験生が受験生でなくなり、
次の世代がいよいよ受験生になっていく時期かと思います。

受験生の皆さんへ、ということで、「今はつらい我慢の時期だと思いますが、春は必ず・・・」なんて脊髄反射のように書き出そうとして、手が止まりました。
そもそも受験期というのが、やりたいこともできずひたすら我慢し続ける、
純度100%の我慢の時期かというと、そうではないはずだし、そうであってはいけないと思うんです。
「今我慢すれば後で楽になるから」って、将来のために今を完全に捨てる、
なんて行為はロクな結果をもたらさないと思うんですよね。
今は今で生かさないと。

辛くないかと言ったら、基本的に辛いんですが、その期間は真っ暗の虚無で、
そこをただただ耐え忍ぶと春が、っていうのはきっと違う。
その「辛い期間」は、心を無にして我慢してればいいんじゃなくて、
その時なりの楽しさを見出せるはず。
部活の練習みたいな。
部活の練習が日々辛いとしても、考えて練習しない選手はダメだし、
練習の日々にはそれなりの楽しさが見いだせるはず。
また、無事本番が終わったら「もうこの競技を二度としなくていい、自分がやってた競技はきれいさっぱり忘れよう」ってわけにもいかないのと一緒で、「受かったら、それまで勉強したことはきれいさっぱり忘れていい」ってわけでもない。
大学で勉強しようと思って受験勉強するなら、
部活の練習中みたいに、つらいなりに楽しい瞬間ってあるはずなんです。
それは、できなかったことができるようになった、ささやかな嬉しさでもいいし、
知ったことに対して広がった、ちょっとした興味でもいい。
そういう経験が内側に蓄積されたうえで大学に来たのか、
そうじゃないのかによって、大学に入ってからの楽しさも全然違います。
やりたいことをひたすら我慢して、心を殺して取り組むんじゃなくて、
プレッシャーのかかる時期にこそ、いろいろ考え、色々感じる心を、どうか大切に。。。

「考えてたらできなくなるから、とにかく考えずにやれ」なんて言われたりしますが、
私としては、やる以上はちゃんと考えた方がいいんじゃないかなー、考えたらできなくなることは、
ひょっとしたらやっちゃいけないことなんじゃないの?なんて思ったりします。
なにでもかんでも逆張りしようってわけじゃないんですが、
「考える前にやれ」だとか、「今はつらいけど春はきっと」だとか、そういった、
「よく目にするフレーズ」に対し、それは本当に自分の心と考えから紡がれた言葉なのか、
本当にこの局面、この相手に対し、そう思っているのか、って疑ってみたいんです。
それが自分の言葉に対する責任ってもんじゃないのか、と。
われわれは作文とか書かされてるうちに、それっぽいフレーズを覚えていく。
そして、そういうフレーズを心なく使うことに慣れていく。
既存のフレーズは、確かに先人たちの知恵が詰まっていたりして、
自分一人では考えられないような考えの結論が、凝縮されていたりもする。
でもでも、そのフレーズを自分で使おうとした時に、その中身を自分で考えただろうか?伝える相手の顔を浮かべただろうか?自分で考える代わりに、それっぽいフレーズをそのまま使ってるだけなんじゃないか?そしたら、よくまとまったフレーズは、せっかく誰か、または多くの人が考えた結果生まれたものであるにもかかわらず、それを使う人に「考えないこと」を促してしまうことになりかねない。

原稿用紙を埋めろ、と言われたときに、われわれはどんな気持ちで、どれだけ頭を動かして言葉を紡いでいるだろうか?それっぽいフレーズが自分の経験の中に蓄積されていけば、いくらでも「心にもないそれっぽいこと」で紙面を埋めることが、技術的にできてしまう。
そういうことがうまくなるのが日本語日本文学科じゃない。
外付けの技術としてのことばではなく、内側から紡ぎ出されることばを。
考えないで済むためのことばではなく、考えた結果としてのことばを。
それが日本語日本文学科。

受験が始まる、って思うと、これからツライ、我慢の一年間かー、
って思うかもしれませんが、そうでもないよ。
この時期の、この状況でしか考えられないことを、ちゃんと考えてね。
私は、そんな風に思っています。

(須永哲矢)