日本語日本文学科でなぜ学ぶのか

〈日文便り〉
私には手痛い失敗の経験があります。
遠い昔になってしまいましたが、教育実習で私は中学1年生に説明文「フシダカバチの秘密」を教えました。
説明文は単調に読むことが多く、わからなくなってしまう生徒もいると思って、当時は珍しかったグループワークを取り入れました。生徒同士で教えあい、グループの意見発表も「班の○○係」と指名して、得意でない生徒にも発表の機会を与えたのです。研究授業の何時間も前からこの形式で積み重ね、生徒たちの協力もあって、無事に研究授業もすんだ、その反省会の時のことです。あるベテランの先生から「あなたの授業では、内容は読み取れるでしょう。でも、文章の味わいは学べない。「フシダカバチの秘密」が何年も教科書に載り続けているのは、ただ内容がおもしろいからではない。文章のリズム、選ばれた言葉の響き、読者を引きつける構造があるからだ」と指摘されました。21歳の若輩者が考えもしなかった厳しい言葉に、不覚にも涙したのでした。

ChatGPT(チャット ジーピーティー)が身近なものになりつつあるようです。これは、アメリカのOpen AI社が開発した、人工知能(AI)を使ったチャットサービスで、人間の質問に対して、まるで人間のように自然でクオリティの高い回答をするものです。企業の文書作成、学生のレポート制作、ラブレターの代筆など、あらゆる文章作成に使えるツールとして広がりを見せ、国会の答弁での使用も検討されていると報道されていました。文書作成に取り組む時間が圧倒的に短縮される便利なもののようです。でも……。
最初に指定する条件が同じだったら、みんな似たような文章にならないでしょうか。私たちは何か文章を書くときに、たとえ無意識にでも読み手を思い浮かべて、同じ内容でも文を違えて書いているはずです。その人の書き癖もあるでしょう。物事のとらえ方だって人によって千差万別だと思います。そうした〈味わい〉の部分はどのように担保されるのでしょうか。
さらに、今はさまざまな文章を読み、自分で書いているからこそChatGPTの文の善し悪しを判断できますが、いつもいつもお世話になっていたら、考える習慣を失い、やがて物差しを失うことになりはしないでしょうか。

学生時代から「なぜ日本文学科で学ぶのか」「この世の中でどんな役に立つのだろうか」と考えてきました。本を読む人が多かった時代、私がたどり着いた結論は「平和の体現」でした。つまり直接役に立たなくても、ただ好きというだけで研究できるのは、世の中が平和だからで、我々は平和を体現しているのだと考えたのです。
ところが、急速に活字離れが進み、次々に書店から著名な作家の本が姿を消すようになると、単なる物好きではなく、「文化の継承者」という意味合いが加わってきました。日本語日本文学科で学んだ人たちは、忘れ去られていく日本の文化を次の世代に受け継ぐ橋渡しの役割を担っているのだと学生たちにも言い続けてきました。
でも今、もう一つ加わったように思います。先人たちの残した文章をたくさん読み、自分の中に物差しを作り、文章に個性を追求し続けること――「文章の味わいを守る砦」であり続けることです。

(笛木美佳)