「外来種」に思う

こんにちは。
日本語日本文学科「生き物係」須永です。
最近気になっているのは、家の周りでもちょいちょい見かけるようになったこちらの方。

アゲハ蝶?
いえ、よく間違われるんですが、アカボシゴマダラっていう全然別種のちょうちょです


(一枚目:アカボシゴマダラ)
(二枚目:ナミアゲハ)

その辺をひらひらしてると白地に黒い網目模様でぱっと見アゲハに見えてしまうんですけど、よく見ればアゲハの特徴である尾状突起(羽の尻尾のように長く伸びた部分)がないですね。模様や配色も違うし、口吻(蜜を吸うストロー)もアゲハが黒なのに対し、アカボシゴマダラでは鮮やかな黄色だったり(差し色がオシャレ。トップの写真で伸ばしてます)、アゲハとはまた違うあでやかさです。

でも、そんなきれいなちょうちょなのに、アカボシゴマダラなんて、私の昆虫少年時代には聞いたことがありませんでした。それもそのはず、このちょうちょ、外来種なんですね。本来の生息域は中国や朝鮮半島あたりだそうで、つい最近まで日本にはいなかったんです。しかも、自力でひらひら飛んできちゃったわけでもなく、輸入される植物に紛れ込んでしまったわけでもなく、蝶の愛好家が国内で増やそうと勝手に放蝶した結果なんだそうです。漂着者というより、いわば人間が意図的に招き寄せた密入国者。

蝶からすれば、虫マニアの身勝手で異国の地に連れてこられたわけですが、日本の風土は案外居心地がよかったらしく、野に放たれたアカボシゴマダラたちはどんどん数を増やして勢力を拡大、1995年に埼玉で確認されたのが国内初らしいんですが、ついに数年前から、都内の我が家の周りでも普通に見られるようになったわけです。

これをこっそり放した虫マニアとしては、大きくて美しいちょうちょですから、日本でもそのへんを優雅に飛んでいたらいいな、という出来心だったのでしょう。でも、海外からやってきた大型新人は当然在来の生態系に影響を与えます。アカボシゴマダラの場合は、同じエノキの木を食べて育つ他の蝶たちにとって脅威となっています。エノキの葉っぱには限りがあるわけで、アカボシゴマダラが成虫になって羽ばたく数だけ、在来の別のちょうちょの生存の余地を奪うことになります。アカボシゴマダラの生態系への影響は深刻で、現在は「特定外来生物」に認定され、飼育や放蝶などの行為は全面的に禁止されています。

アカボシゴマダラによって大きく影響を受けると言われている蝶のひとつがオオムラサキ。
オオムラサキと言えば、名前の通り大きくて紫の羽が美しい、国蝶です。


(オオムラサキ)

国を代表する、しかも紫という高貴な色をまとったちょうちょの敵だと言われると、アカボシゴマダラが日本を侵略しにやってきたエイリアンのように見えてきます。名前の由来の赤い斑点(アカボシ)も、なんだか不気味な気も・・・?日本国民としては「お、アカボシゴマダラ発見!きれいだなー」などとのんきに喜んでいてはいけない気もしてきます。でも、オオムラサキもアカボシゴマダラも、がんばって生きてひらひらしているだけなのに、一方には「がんばれー」って思って、他方には「出てけー」って思わないといけない、というのも釈然としません。

さてここでちょっと視点を変えてみると、ことばにも外来種ってありますね。 いわゆるカタカナ語とか。 「メディアリテラシー」とか「AI」とか「エモい」とか、新しい概念や感覚を表現する外来種が日々増え続けています。これだって、よく考えてみたら、新しいことばが入ってくれば、元からいた古いことばが駆逐されて使われなくなる、という現象が起こります。生き物が生きる土地が有限なように、人が1日に使う言葉の量も有限なのだから、有限の居場所を取り合うことになります。「スプーン」ということばが日本語に入ってきてメジャーになった結果、もともとあった「匙(さじ)」という和語は、「大さじ」とか「さじを投げる」のような場合を除いてほとんど使われなくなってしまいました。新規参入して定着した外来語だって、その後も安泰である保証はどこにもありません。外来語「チョッキ」は若い人にとっては「ベスト」に取って代わられてますよね。さらに最近では「ジレ」っていう新種も出てきました。こうやって探してみると、ことばの世界も絶滅危惧種だらけです。カタカナ語の氾濫を目にして「日本語の危機だ、本来の日本語を守らねば」なんて言われることもありますが、カタカナ語だけでなく、漢字で書かれる漢語だって、もとはといえば中国語で外来種です。「日本語」という単語自体、外来種なんですよね。「やまとことば」に対し、漢字の音読み(漢語)で「日本語(に・ほん・ご)」って言ってるわけで、この時点で外来種と言ってもいい。カタカナ語のように「目立つ外来種」以前に、日本語になじんでいる漢語はいっぱいあって、そんなふうに日々新しいものや変化を吸収して育っていくのがことばなんです。

こうやって、思ってるよりも実はたくさんの外来種に囲まれている、という点でも、ことばと生き物はそっくり。
ちょうちょの話に戻ると、たとえば「ザ・日本のちょうちょ」って顔をしてるモンシロチョウ、あれも実はずーっとずっと昔に大陸から入ってきた、よそ者だそうです。今となっては日本の自然の主力選手なので、誰も「外来種」とは言いませんが。アカボシゴマダラがカタカナ語、モンシロチョウが漢語みたいなものかもしれません。カタカナ語のように、「新しい外来種」は目の敵にされがちなんですけど、アカボシゴマダラも百年後にはモンシロチョウぐらい「日本のちょうちょ」になりきっているかもしれません。その時にオオムラサキは生き残れているでしょうか?たとえば「ごはん」が和食、「ライス」が洋食、という風に古いことばと新しいことばがなんとなく棲み分けて共存しているように、オオムラサキとアカボシゴマダラが共存できている未来だといいなぁ。

新しい何かが入ってくれば、そこでは必ず古い何かが脅かされることになります。
ことば同士の興亡盛衰であれば、傍観してるだけでいいので楽なんですけどね。生命同士のせめぎあい、しかもそこに人間の作為がからんでくるような場合は、厳しい選択ーーーたとえば全面的な排除ーーーが必要になることもあるでしょう。しかし、やむを得ず排除・排斥という選択をする場合であっても、「敵」「悪者」というレッテルを貼って終わり、ではなく、大前提として、それぞれの「個」を見られる人でありたいと願っています。種としてのアカボシゴマダラが種としてのオオムラサキを脅かしているということと、目の前のこのちょうちょが今この瞬間の生命を懸命に生きているということとは、まったく別のことですから。「木を見て森を見ず」と言いますが、森を見なければならないのと同じくらい、一本のこの「木」と向き合うまなざしも、大事だと思うんです。そして、年を取ってくると、若い世代の人たちの言葉に「?」って思うことは正直増えていくものですが、蝶の気持ちになってみるように、まずはことばの気持ちになって考えたいな、って思っています。そのことばを使う若者の気持ち、じゃないですよ?それは蝶を持ち込んだ人の気持ちみたいなもの。そうじゃなくて、蝶自身、みたいに、「ことば自身」の、きもち。そして、ことばが生まれて、大勢に使われて、最後は忘れられて死んでいく、その生き様をひっそりと見守っていけたらいいなと思っています。

(須永哲矢)