大学(高等)教育とAI/ChatGPTとの関係についての教員の個人的つぶやき

こんにちは!現代教養学科でソーシャルメディアや新しいメディアのあり方について研究している天笠です。

Chat-GPTでAIがついに普及期に入った印象ですが、大学教育とAIとの関係が問題になっています。ということで、学科内で担当している教務担当の会議でも当然のことながら、Chat-GPTを使ったレポートがありなのか?という話が話題に上がっていました。その話を聞いていて思うところがあったので、教員コラムとして投稿させていただきます!

大学としての見解や立場を語る立場にはない訳ですが、少なくとも自分の担当する授業(ネットワーク化した現代社会におけるメディアや人間関係に関わる諸問題の検討)では、レポートの執筆等においてもどんどん使ってください。ただし、結果に対する責任はあなたにありますよ。というスタンスで臨もうかと思っています。

いろいろなところで語られていますが、チャット型のAIはその性質上、与えられた条件に対して「最もそれっぽい出力」を出してくれるわけです。なので、どうしてその出力(テーマ設定や結果)が得られたのか?という部分は、回答をくれない。その人が持っている文脈(言い換えれば、その人が背負っている人生)や、複数人で議論する中で生まれた合意形成のプロセスは含まれない。AIが台頭してくるということは、その場限りの結論・結果だけでなく、そういう途中経過やプロセス、言い換えればストーリーが重要視されるし、そこを「見える化」する努力だったり、教育者はそれを評価する姿勢が必要になってくるのかなと思っています。

AIに限らず、社会学的な大学での学びは、問題設定も無数にありますし(むしろここが一番重要なのかも)、それに対する正解もたくさんあります。そこに正統性や妥当性を持たせるのは、どういう文脈・ストーリーが前提になっているのか。むしろ、そこの部分で、現在のAIは答えを出せないんですよね。(これはむしろ、出力に必要な入力情報なので)

逆の言い方をすると、この分野でAI時代に求められるのは、「文脈・ストーリー」など社会問題を考えるときの「前提」を持てるように(AIにその前提を与えられるように)、その人ならではの知識・スキル・生き方を高等教育で(AIと対話しつつ?)作り上げていくことなのかなと思います。なんて、現代教養学科的!(最後の1文はCMです…)

おそらく新学期の新入生や在校生の教務オリエンテーションで、AIと学びについての関係を語らなくてはいけないので(笑)そのための考え方の整理もかねても投稿でした…。

天笠 邦一/メディア創造領域

大学の課題としてはだいぶポップであまり参考にならないかもですが、J-popのアーティストを社会的文脈から分析せよ。ChatGPT投げた時の回答です。「あなたの好きな」という前置きをおいているのがミソ。好き嫌いを問うのは、大学の課題としては俗人的すぎるかもしれませんが、結局多かれ少なかれ、その人の文脈性は考えざるを得ない時代になってくるのかなと思っています。