2020年3月

創立者が理想としたトルストイの教育 [2020年03月13日(金)]

 レフ・トルストイは、知識を詰め込むことに重点を置いた教育に反対し、子どもたちが自ら問題意識を持てるよう手助けすることが教育の本質であると考え、ヤースナヤ・ポリャーナに農民の子どもたちの学校を建てて自ら教えることでそれを実践しました。そして、人と人、自然と人間との調和を大切にし、平和を愛し、仲間を互いに尊敬し、労働や奉仕をいとわないことを教えました。子どもたちが自然に関心を持ち、さまざまな感動を得ることができるように、野外での教育にも力を入れました。
 昭和女子大学の歴史は、詩人人見圓吉が、レフ・トルストイの理想とする、「愛と理解と調和」に教育の理想を見出し、緑夫人とともに女子教育の道を歩みはじめたことからはじまりました。
 創立者は『学園の半世紀』にこんなことを書いています。「家内がしきりにすすめたのが、トルストイの学校である。彼は軍職を退いてヤースナヤ・ポリャーナに塾のような形の学校を建て、午前中に学科を授けて午後は近隣に病める者、傷ける者、貧しき者、老いたる者など(中略)の家を訪ねて、食を与え、衣を与え、看病し、掃除し、洗濯するなど養護に当たった。人々はこれをよろこび感謝したと言う。こんな学校があって、愛と理解と協調を旨とするならば、どんなに楽しい事であろう。(12頁)」

 トルストイは『国民教育論』(1984年 トルストイL. N.著 昇曙夢、隆一訳 玉川大学出版部)に、その教育の理想を次のように書いています。「上から強制的につくられた学校は、羊の群れのための羊飼いではなく、羊飼いのための羊、なのである。学校は、児童がつごうよく勉強できるように作られているのではなくて、教師がつごうよく教えられるように作られている。」そして、教育を授けるものにとって、何が良くて何がまずいのかがわかるために、教育を受ける側は、自分の不満を表明する完全な権利を持つべきであり、教育学の基準はただ一つ自由のみである、とも語っています。
 子どもたちに自由を与えるというのは、子供たちが好き勝手にやる、という意味ではありません。子供たちの天性の可能性を引き出す、伸び伸びとした教育を行うことだと思います。

 さて、トルストイはどんな場所で教育をしていたのでしょうか。
 トルストイの最初の学校は、ヤ―スナヤ・ポリャーナのトルストイ邸にあります。

最初のトルストイ学校

 トルストイは、モスクワから165 km南にある、ウパ川沿いに位置する都市、トゥーラの郊外の豊かな自然に恵まれたヤースナヤ・ポリャーナで、伯爵家の四男として生まれました。祖先は父方も母方も歴代の皇帝に仕えた由緒ある貴族で、富裕な家庭ではありましたが、2歳の時に母親を、9歳のときに父親を亡くし、引き取ってくれた祖母も翌年亡くし、後見人になった叔母もその後しばらくして他界。幸せな幼年時代とは言えませんでした。入学したカザン大学も1847年に中退し、この年、広大なヤースナヤ・ポリャーナを相続し、農地経営に乗り出しましたが、これにも挫折しました。1859年、27歳の時に、コーカサス戦争から戻り、領地に、学校を設立し、農民の指定の教育にあたりました。強制を排除し、自主性を重んずるのがその教育方針でした。翌年から1861年まで、再び西欧に旅立ち、ヴィクトル・ユーゴー、ディケンズやツルゲーネフも訪問しています。1862年には、トルストイの活動を危険視した官憲による妨害で、トルストイの学校は閉鎖されてしまいました。しかし、トルストイの教育への情熱は生涯変わりませんでした。
 同年34歳で18歳の女性ソフィアと結婚し、これ以降地主としてヤースナヤ・ポリャーナに居を定めることになり、夫婦の間には9男3女が生まれ、ソフィア夫人はトルストイの粗原稿を浄書するのを常としていたそうです。『戦争と平和』執筆終了後、『アンナ・カレーニナ』の執筆にかかる前に、トルストイは自ら初等教育の教科書『アーブズカ』を作成しました。1872年に完成し、1874年には国民学校図書として認可を受けています。『トルストイのアーズブカ 心をたがやすお話』として本学に事務局がある、日本トルストイ協会が日本語訳を新読書社から出版しています。
 世界的名声を得たトルストイでしたが、『アンナ・カレーニナ』を書き終える頃から人生の無意味さに苦しみ、自殺を考えるようにさえなりました。ヤースナヤ・ポリャーナでの召使にかしずかれる贅沢な生活を恥じ、夫人との長年の不和にも悩んでいました。ついに1910年に家出を決行しましたが、鉄道で移動中悪寒を感じ、小駅アスターポヴォ(現・レフ・トルストイ駅)で下車し、その1週間後の11月20日に駅長官舎で肺炎のため、死去しました。82歳でした。葬儀には1万人を超える参列者があったといわれ、遺体はヤースナヤ・ポリャーナの静かな森の中に埋葬されています。

ヤ―スナヤ・ポリャーナのトルストイ(1828~1910)の墓

トルストイ邸入り口の門

トルストイの家(現在は博物館)

博物館の一室

 また、博物館には、屋敷の他に、トルストイが設立した学校や、トルストイの墓地を含む公園などがあります。第二次世界大戦の間は、この地所はドイツ軍に占拠され荒らされてしまいましたが、貴重な遺品などはそれ以前にソヴィエト政府が別の場所に移し保管していたため、戦後、屋敷はトルストイが生きていた頃と同じように復元され、ヤースナヤ・ポリヤーナは、旅行者に非常に魅力的な場所となっています。 
 創立者は『学園の半世紀』で、こんなことも書いている。「これから迎えようとしている社会の新しい五十年は、どのようになってゆくのか想像もつきません。」
 いよいよその五十年目に当たる創立100周年を迎えます。皆さんは、その先の100年後、どんな昭和女子大学の姿を想像しますか。どんな昭和女子大学にしたいですか。

東明学林 [2020年03月06日(金)]


 豊かな水と緑に恵まれた神奈川県西北部の足柄地域東側の大井町に本学の学外研修地の一つ、東明学林があります。足柄山系や箱根外輪山の美しい山並に囲まれ、足柄平野と富士山そして相模の海が一望できる、雄大な樹林に囲まれて高台にあります。この地を研修寮の建設地として購入することが決まってすぐ、当時の理事長人見楠郎先生が数名の教員に声をかけてくださり、車に乗って出掛け、大井川の対岸からこの山の斜面を眺め、どんな建物ができるのかを、満面の笑顔でお話してくださったことを思い出します。完成した東明学林には、教室、ホール、食堂、スポーツ施設も備わり、学園の子ども園から大学までが研修学寮地として利用するようになりました。

「東明」は創立者人見圓吉先生の雅号です。東明学林が開かれたのは、今から43年前の1977(昭和52)年、学寮の緑声舎が完成したのと同年のことでした。創立者の愛した雄大な富士山が正面に見える地です。それから何十万人もの学生、生徒、児童たちが学林を訪れ、山の斜面には美しいつつじの花が咲き、おいしいみかんが実る研修地となりました。開設されてしばらくは、酸っぱいみかんしかできないので、「未完の学寮」などという呼び名もあったとか。

斜面のつつじは、世田谷キャンパスで挿し木をして、東明学林に移植しました。訪れた生徒や学生が斜面を耕し、雑草を取り、肥料を施す「労作」のおかげで、今では、つつじの花の時期になると、地域の方々にも学林を開放して楽しんでもらえるようにまでなりました。滝の水が流れ、東京キャンパスから運ばれた鯉が泳ぐ「見返りの池」、夏には蓮根の花が咲き、冬には蓮根ができる「蓮池」、水車の回る「水車池」などのほとんどが、ここで学寮生活をした人々の手によって創られました。サツマイモの苗を植えるのも、茶摘みも簡単な作業ではありませんが、製茶されたお茶が次に東明学林に来る人々の喉を潤し、サツマイモも秋になると、こども園のこども達が大喜びで掘り出す姿を思い描きながら、自分たちの作業が何かの形で、他の人たちの役に立つことを思い描いて、今でも楽しく作業をしています。

◆校祖の碑とふるさとの碑
学園の創立者 人見圓吉先生は、1974(昭和49)年に亡くなられたので、この建物を見ていたくことはできませんでしたが、より豊かな自然に接することの出来るこの地を教育の理想の場として選んだことに満足されていると思います。学林の正門の少し手前にある「黎明(れいめい)の碑」には、創立者の詩「森はふかし」が刻まれています。

「黎明の碑」

森はふかし  『人見東明全集 第三巻』326-327頁
いばらの道また遠い
入りがたけれど
かなたには不思議の光
小暗き谷の底を
青白く。

なべては
影のごとく消ゆべきに
不思議なる光のみ
移り行く
とこしえにかがやきて。  

「学父母の碑」と「ふるさとの碑」は、東明学林でとても大切な場所です。創立者は富士山をこよなく愛したため、これらの碑は富士山を見るのに一番よい場所に建てられています。「ふるさとの碑」は創立者の故郷の岡山産の花崗岩を使い、創立者の詩「まことに静なり」が刻まれています。雄大な富士の山を見上げながら読む詩には、自然にふれながら自然の中で時を過ごすことの大切さを改めて教えられます。

静かなり 人見東明 『人見東明全集 第三巻』223-224頁

野に出でよ
あかときの光
草の葉
露にぬれ、

地を踏め
地は自然の肌
柔らかにまた冷ややかな
地をふめよ、足うらで。

風さわやかに
木の葉を揺すり
鳥の胸毛をふく。

空をみよ、美しき空に
雲はただよう。

野に出でよ、愛の野に
野は自然の胸
つねに静かにして安らかなり。  大正7年7月

「柔らかにまた冷ややかな地をふめよ、足うらで」と読むと、裸足で冷たい大地を踏みしめる感じが伝わりますね。どんなことがあっても大自然はつねに変わらず「静かにして安らか」なのですね。

緑声舎 [2020年03月02日(月)]

 緑声舎は1975年に起工され、1977年に開寮となりました。創立者の人見圓吉先生を補佐し、本学初の「葵寮」の初代寮監長となり、30年にわたり学寮の礎を築かれた学母の人見緑先生のお名前に因んで緑声舎と名付けられました。

 A棟とB棟があり、A棟には、葵、藤、茜寮が、B棟には、橘、桂、桜、楓寮があり、各寮約100名が生活し、全寮を合わせると約700名の寮生の集う場所でした。多くの先輩たちがここで生活し、同窓生が集まると、いろいろな思いで話に花が咲きます。それから37年後の2014年、緑声舎は閉寮となり、同年4月に学生会館がスタートしました。

 1993年4月から1995年3月まで学寮部長を務められた加藤澄江先生は、母校の教員となられて10年ほどたった時に、当時の大学生のために現在の昭和の泉の一画に新築した橘寮の寮監をされました。その時の寮監長が人見緑先生で、厳格な中にも優しさを秘めたお人柄で、その後の加藤先生の寮監としてのロールモデルになったそうです。その緑先生のお名前を取った「緑声舎」に足を踏み入れた時には、「時代の流れを振り返り感無量であった」と『昭和女子大学緑声舎―37年の軌跡―』に書かれています。

寮内での様々な活動
『昭和女子大学緑声舎―37年の軌跡―』