「ホイアン 世界遺産への道、そしてその後」出版準備

国際文化研究所創設から30年を記念し「国際文化研究所30年の歩み」を書くようにというお話をいただいた。たまたま小説として書き綴っていたものをお見せしたところ、これでも良いというお返事をいただき出版の準備に入った。ほぼ完成に近くなり、岩波書店元社長 山口昭男氏にアドバイスをいただきながら、現在最終調整段階に入っている。以下はプロローグ部分と目次。出版社から文庫本出版のオファーをいただけることを期待したい。(担当:友田博通)

<30年の歩み>(小説仕立て・プロローグを紹介)

「ホイアン 世界遺産への道、そしてその後」

プロローグ

◆日本経済のバブル崩壊

爽やかなビバルディーの曲がゆるやかに流れる超高層住宅のペントハウス。分厚い絨毯の廊下からガラス貼りのエレベーターに乗り、地上の大きな吹き抜けのガラス箱に降りた。外は朝から小雨が降り続く。ステンレス色の電光掲示板に大蔵省銀行局長の土地融資に関する総量規制通達の字が躍る。画面右下隅のN証券提供平均株価の数値が急激に下がり始める。 ガラス箱の吹き抜けの中央にあるオフィス用エスカレーターを上がると、ガラス越しに事務所の受付カウンターが見える。オートドアが開く。彩香の泣きそうな顔が飛んで来る。リゾートホテルの設計をキャンセルしてきたのだ。覚悟はしていたが、いよいよバブル経済がはじけるのだ。

ドーンと体を包み込む重く湿った空気。牛を曳いた三角笠の農夫が滑走路を横切る。西側諸国の経済制裁が続き、飛行機の離着陸もまだ少ないハノイ・タンソニャット空港。健三は、暑さで意識がモウロウとなりつつタラップを降りた。空に浮かぶ雲は、どこにいてもとりとめもなく、執着もなく、淡々と美しい。タラップの下には四条河原町行きの京都市営バスが待っていた。ベトナム経済は、空港バスを買うこともできないほど困窮していた。しかし、椅子だらけの車内は、むしろ人間にやさしい。大きな荷物の山の中に埋もれるベトナム人が、昔の日本のかつぎ屋と呼ばれた行商人のようでなつかしい。

着いた先はねずみ色の四角い箱。何の変哲もないモルタル塗り。低く薄暗い室内に入ると、ステンレスのターンテーブルだけが冷たく異様に光る。ベトナムは、人間にやさしい国のままでいてもらいたい。部屋の片隅で、ロシア製の大きい冷房機が湿度の高い空気に向かって白い煙を吐く。空港を出ようとすると金色の飾りのついた赤帯帽の下の白目が、何の感情も伝えずに古ぼけた画面を見つめる。X線に映るノートパソコンの配線。この頃のベトナムではノートパソコンはおろか普通のコンピュータすらほとんどない。

ごついロシア製のアルミサッシの出入り口に向かう。鉄パイプの柵の向こうで、白い半袖のワイシャツを着たたくさんの人達がこちらを見ている。名前を書いた紙がこちらに向く。名前がない。初めてのベトナム、絶望に陥りつつ茫然としていた。 なんとなく見覚えのある少女がこちらに微笑みかける。

「ヤマモト先生ですか。ワタシはファンハイリン(リン)です。」

「・・・・・・・・」

「チチから先生をご案内するように言われました。」

「おお」

これがファンフィーレ教授(レ教授)のお嬢さんか。

「ダイジョブですか」

「う、うん」

「ベトナムの夏は暑いよ。チチが、東京育ちのあなたがベトナムにやってくるなんて、信じられないって。」

「山本健三です。お父様は健三と呼んでいます。」

リンはお父様によく似ている。実は、リンは国費留学でモスクワ大学日本学科に留学中だが、ロシアの困窮が受け入れている留学生に対する迫害へと繋がって、レ先生は娘のことを心配しベトナムに一時帰国させたのだ。

「日本語、上手ですね。」

「モスクワ大学で日本語を勉強したので、日本の方と話すのはすごく心配です。」

健三は驚いた。リンが優秀なのか、モスクワ大学の教育が良いのか。日本に来たことがないのに違和感のない日本語。ロータリーに出るとホコリまみれの紺色のトヨタクラウンが待っていた。室内は内装がはずれ鉄の骨が見える。くたびれたシートはクッションのバネが針金でできていることを感じさせる。後ろから見るリンの横顔も父親。

車窓から見えるベトナムも、写真や映画で見る戦前の日本。20人もの農夫が水田に横一列に並んで農作業。牛は尾を振り休憩。白い下着のシャツと黒ズボンの二人が紐で吊るしたバケツを器用に振り子運動させ、小川から水を水田に汲み上げる。どこにこんなたくさんの人が住んでいるのだろう。見渡す限りの水田のあちこちに、こんな風景が点在する。

東大の客員教授として日本に滞在したレ教授にお会いしたのは10年前。ベトナムに詳しい東大古田元夫教授に呼ばれて、都心のレストランで食事。健三は六本木生まれという理由だけで、お世話係りに選ばれた。 ベトナム、浅黒い南方系の顔と思っていたが、ほんのり小麦色の肌に大きな白い目とやさしい瞳。食事を終わってホテルの日本庭園を歩いても、「オオ、ワンダフォー」「オオ、ベーリビッグ」「オオ、ビフテックハウス」、レ教授は何にでも素直に感動され、案内するのがとても楽しかった。健三は学生建築設計コンペに入賞、東大大学院をやめて設計事務所を開く。急激なバブル経済の波に乗り、仕事はおもしろいように舞い込む。自宅と事務所をRヒルズに移転させ、大学でも講師として設計を教えた。

◆開発前夜のハノイ

車は、大きな橋に差し掛かる。さらに紅河を渡り土手の上を、土煙をあげて走る。幅広い赤土の帯が蛇行しどこまでも続く。紅河は水の色が紅なのだ。途中に鉄橋が見えた。鉄の帯が独特の形で橋を支え、何となくオシャレ。

「ギュスタフ・エッフェルの設計したランビエン橋。」

リンが誇らしげに言う。 ホテルに着く。薄いピンク色の古めかしいホテル。ドアを開けると丸柱の柱列の吹抜けでおごそか。でも、薄暗いお化け屋敷と言ったほうが正確だ。ホールに荷物を置くと、すぐにホテルの回りを案内してもらった。

「この通りは、ハノイで一番の目抜き通りです。」

「正面に見えるのは、1920年に建設されたハノイオペラ座。」

これも誇らしげだ。通りは夜7時なのにほとんどの店が閉まり、街は真っ暗。裸の白熱電球だけがちらほら見える。どこから沸いたのか怪しげな欧米人が行き交う。街全体が植民地時代のまま。彼らは様々な権益を求めて集まって来ているのだ。ハンガリー動乱に始まりベルリンの壁の取り壊しに代表される共産圏の崩壊は、勇者ベトナムを揺るがしていた。ベトナムは1986年ドイモイを宣言し、資本主義の要素を取り入れる政策を開始する。並行して、資本主義圏からの支援を期待し1989年には共産圏の先兵として戦っていたカンボジアから撤兵、1992年に憲法を大改正し資本主義を許容しドイモイを確かなものとし、資本主義圏からの支援を受け入れる体制を整えた。

アメリカ、フランス、日本、韓国など、ベトナムへの経済進出が解禁されることを見込み、多くの外国人が利権を求めてベトナムに入り込む。そして、アメリカが経済封鎖を解くのが1994年2月。まさにこの時は開発前夜、夜が明けようとしていたのである。

薄暗い街中に、朽ちかけたカフェがある。恰幅の良いフランス人のおじいさんが蝶ネクタイで出迎える。天井が強烈に高い。植民地時代のフランス人の社交場? 吹き抜けの下には、タンブラーを振る黒の蝶ネクタイをした若いバーテンダーが3人。バックは全面鏡で、その前に高級な洋酒のビンが並ぶ。カウンターには、アイロンの効いた柄物のシャツをラフに着た金髪の男性と、どぎつい化粧をしたでも魅力的な女性が座る。クラッシクなソファーセットには、アメリカのビジネスマンが4~5人、真剣に話をしている。

「何飲みますか。」

「カカオフィーズ。」

「おお、洒落たのが好きですね。わたしはダイキュリ。」

「このお店の不思議な雰囲気が、ハノイではないみたいで好き。」

レ先生はパリに留学した経験があり、リンもモスクワ大学に留学していた。リンは健三よりヨーロッパに馴染みがありそうだ。カフェの名はギュスタフ。エッフェルのランビエン橋の設計図が飾ってある。常連客なのか、小柄のベトナム美人を連れたフランスの大男が、老主人に話しかけながら2階に上がっていく。奥の一角では、若い粋な男の子が物悲しいシャンソンを歌う。ハノイはフランスのインドシナ総督府が置かれていた街。東京の戦後の焼け野が原よりはオシャレ。

翌朝、ロビーに降りるともうリンが待っていた。

「オハヨウございます。」

「うん」

「よくヤスメましたか。」

「冷房つけて寝た。」

車で着いた先は瀟洒な洋館が集まる一画。日本ならすごいお屋敷街ということになるのだが、ハノイではこれが官庁街や大使館街。日本なら古い洋館や民家は今や貴重品で、ホテルでも料理屋でもすごく高級な値段をとられる。でも、ハノイではまだたくさん残り、朽ちかけたままで使われている。安っぽいコンクリートとガラスの近代建築は昨日の空港ぐらいだ。

瀟洒な2階建ての洋館。ギシギシと木の床を鳴らし階段を昇る。レ先生は2階の会議室で数人のカーキー色のシャツを着た人々と待っていた。

「オオ、ヤマ、ワンダフォー」

「ハアーイ」

レ先生はハノイ国立大学歴史学科教授。政府でも重要な地位にある。日本も戦前は皇国史観、国の歴史はとても重視された。ベトナムもベトナムの歴史を重視する。紀元前に、秦の始皇帝、漢の武帝に征服され、以来千年に渡り中国に支配された。しかし、ベトナムの人達は、ベトナムは中国の一部ではなく、独立した民族・独立した国家であることを誇りに、その生きた証である歴史・考古・文化財を大切にしている。

文化情報省からはルーチャンチューさん。当時は専門官だが、文化財局長を経て副大臣となり、ベトナムの文化財保存行政のトップとして君臨し続ける。温和な優しい方で、ホイアンから始まり、この分野における日本の国際協力を支持してくれた。 文化情報省文化財修復設計センターからはファンダオキンさん。当時は所長だったが、その後は所長を娘婿ティンさんに譲り、本人は建築学会副会長として君臨しつづけた。

このプロジェクトは、越日友好協会と日越友好協会が企画して出発。越日友好協会の会長ブーテンホアン農林大臣、当時のベトナムでは政治ランクの非常に高い方で、奥さんは若く魅力的。当時、教育省に勤務されていて、ブーテンホアンさんから日本で勉強させたいと言われ、昭和女子大学は即了承してくれた。越日友好協会の副会長は、カンナムダナン省グエンディンアン副知事とハノイ国家大学のレ教授。日本側の日越友好協会の会長が古田元夫東大教授。初めてのベトナムでのパーティの中で、言葉のわからない健三は困惑するばかり・・・・・・。

3ヶ月前バブルがはじけ、激しいババ抜きゲームのさなか一本の電話があった。

「東大の古田です。レ教授のことを覚えていますか。」

「はい」

「レ教授は、今、ベトナム歴史学会会長になり、これから始まるベトナムの経済開発に際し、他のアジア諸国で起きた文化遺産が破壊されることをとても心配しています。」

「はい。」

健三は急激に失速する日本経済に失望していた。共産圏であったベトナムは、東欧やソ連の崩壊とともに、西側諸国の援助を期待しドイモイ(開放)に転じた。これを歓迎し、オーストラリア・カナダ・韓国、さらに日本が協力に名乗りを上げた。上下水道、トンネル・橋梁・立体交差、工業団地、超高層ビル、日本政府も国際協力という名のもとに巨大建設投資を申し出ていた。

「レ教授は、日本には1600年前後に日本人町があったホイアンの町並み保存に協力してもらいたいと言っています。」

「はい。」

「そこで、とりあえず専門家に現地を見てもらいたいと言うのですが。」

「はい。」

何となく健三は引き受けた。巨大開発の渦の中に取り込まれた瞬間?

 

<目次>

「ホイアン 世界遺産への道、そしてその後」

プロローグ・・・・・・・・・・・・・・・・・1

◆日本経済のバブル崩壊

◆開発前夜のハノイ

第一章 日本人町ホイアン・・・・・・・・・11

◆米軍廃墟のダナン

◆日本人町の盛衰

◆中国人町として繁栄

◆失われた日本人町は

第二章 日本の国際協力 要請主義・・・・・31

◆国際協力の枠組みを求めて

◆中部開発計画の要請書

◆ベトナム政府へのロビー活動

◆日本政府のベトナム戦略

◆提出された要請順位

第三章 日本企業のベトナム進出・・・・・・55

◆ホイアンにも近代化の波

◆文化財修理は自国の責任

◆町並み保存を支えた財界人

◆共産主義国での日本企業

◆救いの神はメセナ企業

第四章 ホイアンファンを作る・・・・・・・77

◆マリちゃんは夜の人気者

◆町家の修理工事開始

◆人見理事長のベトナム訪問

◆日本出版クラブのベトナム旅行

第五章 町並みを知る 保存条例に・・・・・94

◆家屋調査の学生達

◆チャンフー通りとタイホック通り

◆現存する町並みと建物

◆スー市長の町並み保存条例

第六章 伝統文化 守るための技術・・・・108

◆ホイアンの少女たちの悲恋

◆華人コミュニティの成立

◆スー市長の修理工事停止命令

◆日本の文化財修理技術移転

第七章 日本の石油戦略 中部開発・・・・124

◆日本町に日本人が来ない

◆中部開発計画の策定

◆通産省の石油戦略

◆中部開発の火を絶やすな

第ハ章 世界遺産登録 観光整備へ・・・・141

◆スー市長の観光チケット

◆中秋の獅子舞とランタン祭り

◆日本橋周辺と二チュンの開発

◆世界遺産登録とスー市長

第九章 ホイアン日本祭 世界へ発信・・・160

◆田舎町からの脱出

◆第一回ホイアン日本祭り

◆近江八幡市と裏千家

◆クアダイ海岸に5星ホテル群

第十章 宮中晩餐会 協力から交流へ・・・173

◆天からの贈り物 アンホイ島

◆宮中晩餐会と皇太子訪越

◆世界遺産10年 若者達から

◆日越大学 国際協力の総仕上げ

第十一章ウィンウィンの国際交流・・・・・190

◆ホイアン観光の拡大戦略

◆スー市長の日本訪問

◆チャム島開発と石見銀山

◆2018年の日本祭り

第十二章ホイアン日本橋の修復・・・・・・216

◆新型コロナウィルス

◆タマちゃんと日本橋修復

◆ホイアンの日本橋

◆国際協力の最終形態

エピローグ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆マリちゃんクインさんブーさん

◆「世界遺産ホイアン日本橋展」