芥川龍之介と美術 ― 授業のひとこま ―

〈授業紹介〉

私は、数年前から「文学と美術」(日本文学Ⅰ・近代B)という授業を
持っているので、それにちなんで、「芥川龍之介と美術」のお話をします。
美術といっても、さまざまなジャンルがありますが、今回はその代表の
「絵画」をめぐる話です。


↑「沼地」を発表したころの芥川龍之介(1919)

絵を描く人=画家=絵師といえば、皆さんは「地獄変」(大正7年4月)の
絵仏師良秀のことを思い浮かべるかもしれませんが、今回のテーマは
「地獄変」ではなく、「沼地」(大正8年5月)という作品です。
この作品のあらすじは、以下の通り。

「私(わたくし)」は或る絵画展覧会場で「沼地」と題された一枚の油絵から、
芸術家の恍惚たる悲壮の感激を受け、かたわらの美術記者に「傑作です」と言うが、
記者はその評を嘲笑し、思うように絵が描けないため狂気となって自殺した画家の絵だと告げる。
しかし「私」はそれを聞いてもなお全身に異様な戦慄を覚えつつ、
記者に向って再び昂然と「傑作です」と繰返す。
作品の本文には、

画は確、「沼地」とか云ふので、画家は知名の人でもなかつた。
又画そのものも、唯濁つた水と、湿つた土と、さうしてその土に繁茂する草木とを
描いただけだから、恐らく尋常の見物からは、文字通り一顧さへも受けなかつた事であらう。
その上不思議な事にこの画家は、蓊欝たる草木を描きながら、一刷毛も緑の色を使つてゐない
蘆や白楊(ポプラア)や無花果を彩るものは、どこを見ても濁つた黄色である
まるで濡れた壁土のやうな、重苦しい黄色である。
(…)しかしその画の中に恐しい力が潜んでゐる事は、見てゐるに従つて分つて来た。
殊に前景の土の如きは、そこを踏む時の足の心もちまでもまざまざと感じさせる程、
それ程的確に描いてあつた。踏むとぶすりと音をさせて踝(くるぶし)が隠れるやうな、
滑な淤泥(をでい)の心もちである。私はこの小さな油画の中に、
鋭く自然を摑まうとしてゐる、傷(いたま)しい芸術家の姿を見出した。
さうしてあらゆる優れた芸術品から受ける様にこの黄いろい沼地の草木からも
恍惚たる悲壮の感激を受けた
。実際同じ会場に懸かつてゐる大小さまざまな画の中で、
この一枚に拮抗し得る程力強い画は、どこにも見出す事が出来なかつたのである。

とあります。
引用が長くなりましたが、このような陰うつな絵が実際にあるかどうか
はともかくとして、「黄いろい沼地」の絵は、〈黄色の画家〉と
呼ばれたゴッホの絵を、容易に想起させます。
「沼地」の、狂気となって自殺した画家の設定もまた、精神を病んで、
ピストル自殺をしたゴッホに重なるからです。

芥川は、ゴッホを通して「絵画」を発見し、やがてゴッホと同じように、
魂の苦悩に憑かれ、自殺してしまいました。

↑ゴッホの「黄いろい」絵の代表作「ひまわり」(1888)

この作品からは、いくつもの解釈が導き出せますが、語り手の「私」の
「黄いろい沼地」の絵から受けた感動を、作者芥川が「恍惚たる悲壮の
感激」と表現していることに注目してほしいのです。
というのは、この作品に先立つ「戯作三昧」(大正6年11月)にも
「恍惚たる悲壮の感激」という言葉があり、「地獄変」にも
「恍惚とした法悦の輝き」という表現が出てくるからです。
つまりこの言葉は、芥川にとって芸術家の理想の境地を示すものなのですね。

しかし彼らは、「沼地」に典型的なように、世間には理解されません。
逆に、世間の無理解こそが、優れた芸術家のあかしになるわけです。
芥川龍之介自身は、決して世間に理解されなかったのではなく、
むしろ当時の人気作家のトップランナーでしたが、芸術家を真の芸術家
たらしめる根源が世間の理解や人気と一致しないこともまた
よく知っていたのでしょう。
芥川龍之介は自殺の一か月前(昭和2年6月)に発表した
「文芸的な、あまりに文芸的な」の中で、

「西洋」の僕に呼びかけるのはいつも造形美術の中からである。

と述べているほど、「美術」は彼にとって「西洋」を知るかけがえのない体験でした。
その他、東洋美術にも造詣の深かった芥川。
自画像として「河童」の絵を描き続けた芥川。
などなど、芥川龍之介と美術に関する話題は、尽きるところがありません。

続きを知りたいかたには、ぜひとも私の授業に出席してもらいましょう。

〈YS〉