100年間を語ること

〈日文便り〉

先日、親戚の100歳のおじいさんが亡くなったことを知った。
年に1、2回程ある親戚の集まりで会うその人を、
私は小さい頃から「おじちゃんまん」と呼んでいた。

おじちゃんまんは1919年生まれである。
1919年はヴェルサイユ条約が締結された年で、当時の首相はなんと原敬。
ちなみに有島武郎の『或る女』(私が最も好きな小説のひとつ)が、
『有島武郎著作集』にて刊行された年でもある。

高校時代、日本史の教科書を開き、1919年の出来事から現代までのページをつまんで、
その分厚さに驚いたことがある。受験生の私たちが、必死になって覚える近現代史を、
おじちゃんまんは実体験として記憶している。

おじちゃんまんに会うと、よく過去の話をしてくれた。
二・二六事件の日は雪が降っていて寒かったこと。
戦前、上野から神田までタクシーに乗る時、並んでいるタクシーの運転手に
運賃を交渉して回って、どのタクシーに乗るか決めたこと。
徴兵中は、敵の高度を言い当てて上官にほめられたこと。(実は直感で答えていたというオチ)
戦争の話でさえ、日常の些細な小咄のように話す(現実はどうだったかは別として)。

おじちゃんまんは独特なペースを持っていた。
マイペースといえばそれまでだが、それが個性というよりは
どこか「近代人」のペースのように感じられた。

一つだけ、心残りがある。それは、当時の文学について何も聞かなかったことだ。
私は大学生の時、日本の近代文学を専攻していた。
1919年生まれのおじちゃんまんの青少年時代には、太宰治、菊池寛、志賀直哉、
堀辰雄、江戸川乱歩などなど、近代文学を代表する多くの作家たちが、創作活動を行っていた。
そしてもちろん、私が卒業論文で研究していた横光利一もその一人だ。
私たちが今、書店に行って新刊を手に取るように、おじちゃんまんも
文豪たちの名作を新刊として手に取ったはずである。

一度、そのことを尋ねようとした。しかし、のどの奥がつかえたように聞けなかった。
私は近代文学が好きだし、そもそも本を読むという行為が好きだ。
本を読んでいると、一人なのに一人でなくなる。
時に自分が生きていることさえ、忘れてしまえるから好きだ。
それでも本当は、その「一体感」はかりそめであることも知っている。
特に、私が読む近代の作家で今生きている人はいない。
その「覆られなさ」に私はロマンを感じていたのだと思う。
「近代人」であるおじちゃんまんに話を聞いてしまうと、その均衡が破られてしまう気がした。
あの時ためらったことを、今とても後悔している。

大正、昭和、平成、令和。私なんかは想像もつかない、100年だ。
もしも私が100歳まで生きたとしたら、何を語ろうか。

(MR)