日文特別講演会👀~安藤宏先生のご回答~

日文特別講演会「太宰治と近代作家たちー芥川龍之介・川端康成・志賀直哉ー」の参加者様からいただいたご質問に対し、安藤先生からご回答をいただきました。
以下青字部分が安藤先生よりいただきました文章でございます。

このたびは私のつたない話を熱心に聞いて下さって、まことにありがとうございました。
アンケートを拝見し、とても嬉しく存じました。以下、頂いたご質問に関し、ごく簡単にメモを記させて頂きます。

Q.数ある作家の中で、何故太宰治の研究を始められたのでしょうか?
A.かつて太宰治を愛読していた時期がありましたが、研究対象に選んだのはまったくの偶然です。

Q.川端自死では臼井吉見の本が騒がれたこともありました。太宰への思いなど、川端を自死に追いやった遠因について、ご意見聞きたかったです。
A.川端康成の自殺の原因は、一つに特定できないので、慎重に考えるべきでしょう。

Q.潜在的二人称といえば太宰治というイメージをもっているのですが、文章を作成する上で禁じ手であると小耳に挟みました。私は「共感」という気持ちを読者から引き出させるためなのでははないかと考えていますが、
その手法を用いているのは何故なのか教えていただきたいです。
A.潜在的二人称のねらいは、会話体(話し言葉)の長所を書き言葉にいかにとりいれていくか、という点にあるように思います。

Q.先生は講演の中で、太宰治と芥川賞審査員である川端康成との関係を話されていましたが、もう1人の審査員である佐藤春夫と太宰治の関係性はどのようなものなのでしょうか。
A.佐藤春夫との関係は、お話するのに数時間を要してしまうので、拙著をご参照下さい。

Q.志賀直哉と太宰治が言文一致体の両極だということについて二点質問です。
第一に、言文一致を、志賀直哉と太宰治を二極とした数直線のように見て、その間に他の作家の作品をポツポツとプロットしていくことは可能でしょうか。一人称小説で「作中の私」と「語っている私」が近いほど志賀寄りなのでしょうか?第二に、太宰治たちの登場以降、「言文一致」に関する語りの二極はどう変異していくのでしょうか。志賀直哉と太宰治の間をふらふらしていくことになるのでしょうか。
A.志賀と太宰の文体のちがいですが、ポイントは、読者をどこまで意識して書くかという、「読者係数」のちがいにあるかと思います。志賀は一つの規範とされてきたので、係数をゼロに近づけるのが理想、という考え方は確かに強かったと思います。高見順、石川淳などの文体は、あきらかに係数を上げてこれに反逆しようとする傾向が強いですね。

Q.川端との芥川賞をめぐる騒動は、大正時代の文壇の影響を受けた太宰の挑発によるものでしたが、晩年の志賀との論争では、太宰に世間へのイメージ作り(知名度を上げるためではなく、祭り上げられている志賀へ対抗する姿を見せたい)という考えは一切なかったのでしょうか。
A.晩年の志賀への反発も、志賀を「世間」の代表に見立てようとするしかけはあったように思います。

Q.①「太宰治と三島由紀夫は愛着障害的側面で似通っていた。太宰はそれに怯え、三島は“完璧”を作り出すことで打ち勝とうとしていた。」とする論者(岡田尊司氏など)もいらっしゃいますが、その点いかが思われますか。実際にそれが疑われる状態、文学に与えた影響などはあったとお考えになりますか。②太宰は双極性障害だったとする人もネット上でいらっしゃいますが、その点いかがお考えになりますか。
A.作家の性質を考える際に精神病理学を援用することには、私自身は慎重でありたいと思っています。表現の特質、という点にポイントをおきたいので。

簡単な回答で恐縮ですが、よろしくお願い致します。
もしご関心があれば、図書館などで拙著『太宰治論』を覗いて頂ければ幸いです。
ありがとうございました。

ご質問くださった皆様、ありがとうございました!
(飯村)