2016年6月

昭和学園記念室 [2016年06月24日(金)]

 皆さんは、昭和学園記念室がどこにあるかご存知ですか。見学されたことはありますか。
 
 創立者人見記念講堂の一階の入り口に向かって右側、講堂事務室に向かう階段を上がり、左手のガラスの扉を開け、すぐ右手に歩いて、初めの右手の扉の部屋が昭和学園記念室です。ちょっとややこしいですね。部屋が開いていない時は、隣の光葉同窓会事務室に声をかけていただくと、鍵を開けてくださることになっています。
 
(昭和学園記念室)
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 ここは応接室となっていて、創立者人見圓吉先生、第二代理事長人見楠郎先生の思い出の品や本学の歴史に関する数々の品が展示されています。日本女子高等学院の創立、菊池寛賞受賞などにかかわる貴重な資料も含まれています。
 
(菊池寛賞)
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 在学中の学生の皆さんは創立者人見圓吉先生のことは、入学の時に渡される『学生便覧』にある「創立者人見圓吉と緑夫人」の写真だけでしか、多分、知りませんよね。ここにある短冊に手書きされた「草の息 木の息 森の息 ききて こころ静かに 生きて 行かまし」の歌は東明学林の歌碑にもなっています。
 
 圓吉先生は、どんな青年だったのでしょう。先生のまわりをどんな人たちが囲んでいたのでしょう。私が圓吉先生のお授業を受けたのは先生の晩年の1年間だけでした。特製の袋に入れた牛乳瓶をいつもお持ちになり、大きな講義室で授業をされました。牛乳は健康に良いので、いつもそうなさっていると伺いました。昭和学園記念室は大きな部屋ではありませんが、圓吉先生が愛用されていたベレー帽やマント、それに拡大鏡、老眼鏡、硯箱などが展示されていて、「女性こそが世界を変えることができる」と信じて、文筆家としての筆を折り、女子教育にその後の生涯をささげられた先生のお姿を彷彿とさせます。
 
 大学時代に英米文学科で学んでいた私たちは、アーノルド・トインビーの書いた『世界と西欧』の一部を講読の教材として読んだ記憶があります。その中でトインビーは、歴史的に滅びた民族の共通点は、理想を失う、お金に価値を求めて心の価値を失う、自国の歴史を忘れることにあったと書いていたと思います。国でも、大学でも、家庭でも、その始まりから現在まで辿ってきた道を大切にする気持ちを持ち続けたいですね。
 
 歴史の始まりを知ることはとてもミステリアスで楽しいことです。未知の発見がきっとあります。昭和女子大学の始まりとその歴史からも、私たちの想像を超えるような何かが発見できるかも知れません。もうすぐ創立100周年を迎える本学の歴史の始まりとその歩みを、在学生、卒業生、教職員の皆様も是非、見学していただけると嬉しいです。

昭和のタイムカプセル [2016年06月17日(金)]

 創立者人見記念講堂の前に建っているトルストイ像は、パンフレットや式典の次第などの学園の印刷物の表紙でもおなじみです。本学で学んでいる人なら誰でも、トルストイ像のことを知っていると思っていたのですが、先日、像の前を通りかかった学生達が、「これ、誰?」「創立者記念講堂だから、創立者じゃないの?」と話しているのを聞いて、びっくりしました。創立者の人見圓吉先生は、がっちりしていてとても大柄な先生でいらしたことには間違えはありませんが・・・。今日は、そのトルストイ像のことについて書いておきたいと思います。
 
(トルストイ像)
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 記念講堂前のトルストイ像は、ブロンズ製で2.5メートル、380キロもあります。今から120年近く前、トルストイが同じロシアの作家ゴーリキーと一緒に写した写真を基に作られ、中部ロシアのニコーリスコエの町の博物館の前に建っているものを模したものです。
 
 さて、昭和のトルストイ像には秘密があります。それは、実際に重量を測ってみると、なんと480キロにもなるということです。なぜだかわかりますか。
 
 像内に80周年を迎えた当時までの昭和学園の資料がさまざま入っているのです。開講の詞、人見東明全集、それまでの全卒業生の名簿、学生便覧、学報の特集号、それに、当時の昭和学園の施設の写真や学園が発行した様々なパンフレット等です。
 
 小学校や中学校の卒業記念にタイムカプセルを埋めたことがある人もいるでしょう。でも、いざ掘ることになり、探し始めると場所がどこかわからなくなってしまったとか、他のものがその上に建って掘り進めないとか、掘り当てても水が入っていて何が入っていたのかわからない、など、失敗談もたくさん聞いています。でもトルストイ像のタイムカプセルは、心配ありませんね。
 
 さて、像内に入っているものを開封するのは、いつのことになるのでしょう。1970年に行われた日本万国博覧会の次の年、大阪城本丸にタイムカプセルを埋めたことは大きなニュースとして扱われました。世界各国から2000点以上の文化的価値を持つ品物を集め、内径1メートルの同じカプセルを2個埋め、上の1個は各世紀の初めに開き、そのまま埋めておいても持ち続けるかを調べて、良ければ再度密封して埋めるのだそうです。2000年に第1回目のチェックを行った時には、内容物に変わりは無く、そのまま封をしてまた埋めたそうです。下の1個は埋めた時から5000年後にあたる6970年に開かれる予定とのこと。そう聞くと、昭和のタイムカプセルを創立100周年に開封するのは、早すぎますよね。

昭和学園のバラ [2016年06月10日(金)]

 最近、キャンパスのあちらこちらに、美しいバラの花が咲いていたのに気づきましたか。
 80年館の東側入り口の壁や西門に行く手前の中高等部側の通路わきに、薔薇の垣根ができています。そして見事に赤いのつぼみがつき、花を咲かせてました。この垣根づくりは、坂東理事長が昨年提案して下さったものです。
 
(西門手前の薔薇の垣根)
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 学園には薔薇にまつわるこんな話があります。
 昭和学園がこの太子堂にある陸軍基地跡に移転したのは1945年のこと。第2次世界大戦直後のことで、廃屋同然の兵舎や防空壕がたくさんあった荒野だったそうです。そこに赴任されたのが、後の第2代理事長、第5代学長の人見楠郎先生でした。ベニヤ板に墨汁を塗った黒板、ガラス窓もない殺風景な教室で、創立者人見圓吉先生ご夫妻と20数名の学生との学園作りが始まりました。でも作業は大変でした。そんな中のある日、その殺風景な教室にたった一輪、小さな薔薇を飾ったところ、学生達に笑顔が戻ったのだそうです。もちろん当時の学園は貧乏でした。卒業生を送り出す時に、何も記念になるものも贈ることができません。そこで、楠郎先生が思いついたのが、薔薇の苗木を育てて、卒業生の胸元を飾ることだったのです(詳しくは『創立八十周年を迎え 昭和学園を語る』人見楠郎著を参照)。そして、少しずつ挿し木を続けて株を増やし、その後もたくさんの卒業生を祝福することになりました。
 
(昭和30年 校舎火災後の焼け跡を片づける学生たち)
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 最近は次々と素晴らしい教室棟や研究棟が建ち、昨年までは、薔薇は日本庭園にちらほら残っているだけになっていました。今年、美しく咲いた薔薇の花を見ると、この地に移転してきた70年も前の先輩や先生方が大変な苦労に耐えて学園を育ててくださったことを思い、感謝の気持ちでいっぱいです。そして、私たちは、これから50年、100年先の後輩に何が残せるのでしょう。是非皆さんにも一緒に考えて欲しいと思います。

オリンピック [2016年06月03日(金)]

 もう50年以上も前のことになりますが、1964年の東京オリンピックでは本学のキャンパスの中央にある体育館が、世界各国の体操選手の練習会場となりました。私が高校生の時のことです。外から覗くと、チェコスロバキアの選手たちが平均台の練習をしていたことを記憶しています。1993年からはチェコ共和国とスロバキア共和国が分離したので、チェコスロバキアという国があったことを知らない方もあるでしょう。「オリンピックの名花」と呼ばれたベラ・チャスラフスカ選手もきっとこの中にいたのかもしれません。この年に、オリンピック協会から大学にいただいた五輪旗は、その後、昭和のグラウンドで行った全学園の体育祭の入場式の先頭を飾ったものでした。

(今も残る体育館)
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 チャスラフスカさんは、1942年生まれで今年74歳。1964年の東京オリンピック、1968年のメキシコオリンピック女子体操の個人総合で優勝しました。チェコスロバキアの首都プラハへのソ連軍侵攻に反対したことから、東欧での民主化の波がチェコスロバキアの共産党政権を崩壊するまで迫害を受け続けたそうです。1990年には、大統領補佐官として彼女は再び日本を訪れています。
 日本では今、次々とリオデジャネイロ大会の代表選手が発表されていますね。皆さんはクレー射撃の競技をご存知ですか。いくつかの種目に分かれていますが、基本的には散弾銃で動く直径15センチ程のクレーと呼ばれる素焼きの皿を撃ち壊していくスポーツ競技です。リオ五輪の代表選手に、昭和女子大学卒業の石原奈央子さんが選ばれました!
 石原さんは文学部日本文化史学科を1997年に卒業され、ご実家は栃木県の天狗で有名な古峯神社です。イギリスに5年間留学もされました。アジア予選で1位になり、この種目で初の日本女子の五輪出場となるそうです。また、リオのパラリンピックの水泳でも本学に在学中の福祉社会学科2年の森下友紀さんが、水泳S9クラスで100メートルバタフライに日本の代表として出場します。
 近代オリンピックでは、様々な競技が行われてきました。1920年のアントワープ大会までは綱引きも競技種目になっていたそうです。オリンピック競技のテレビ中継はきっと皆さんがご覧になると思いますが、これを機会にオリンピックの歴史を振り返ってみると興味深いことがたくさんあるのではないでしょうか。そして、みんなで本学学生の森下友紀さん、卒業生の石原奈央子さんを応援しましょう。

(リオのオリンピック 女子クレー射撃代表の本学卒業生 石原奈央子さん)
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(リオのパラリンピック 水泳代表の福祉社会学科学生 森下友紀さん)
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