建物

この景色が見られるのは [2018年03月16日(金)]

 丘の上に建っているのは、どこの建物でしょう。アメリカ、ボストンの丘(モスヒル)に建っている昭和女子大学ボストン校の建物です。キャンパスの入り口から入り、車道から右の歩道に進むと、校舎のレインボーホールが見えます。手前の薄い黄土色の建物です。普段は、この歩道を歩いて丘を登る人は少ないので、初めてこの景色を見る方もいらっしゃるでしょう。ボストンは函館や室蘭と同じ位の緯度にあり、今年は、かなり雪が降りました。


(昭和ボストンから見えるボストンのダウンタウン)

 この写真は、もう少し先ほどの歩道を登り、玄関ホールを右手にして、駐車場から丘の下に見えるボストンのダウンタウンです。この写真では、ダウンタウンには雪が積もっていないように見えますが、まだまだ町中でも雪が残っています。少し前までは、高い木々が、視界をふさぎ、キャンパスからこんなにきれいなダウンタウンを見ることができませんでした。最近、高い木の枝を落としたので、プルーデンシャルタワーもよく見えます。左手前にあるバスは、昭和ボストンから近くのMBTA(Massachusetts Bay Transportation Authority)と呼ばれている地下鉄のGreen Lineの駅、Reservoirまで、送迎してくれる昭和ボストンのバスです。


(レインボーホールにあるステンドグラス)

 はじめの写真で丘の上に建っていたレインボーホールにあるのが、この写真のようなステンドグラスです。時間や天候によって様々に違った表情を見せてくれます。特に明るい朝日が差し始めると、様々な色の光が交差してホール全体に差し込み、とても美しく、神秘的です。雪が積もると、太陽の光が真っ白な雪に反射して、なおさらステンドグラスから差し込む光が美しく輝きます。

狛犬それとも狛猫? [2017年12月22日(金)]

   
(8号館と1号館の間のプロムナード、ウッド・デッキにある置物)

 8号館と1号館の間のプロムナード。昨年の夏に工事を終えた素敵なウッド・デッキを、皆さんも楽しんでいることと思います。大学生から初等部の児童や保護者の方々、そしてBSTの生徒たちもたくさん利用してくださっています。以前はアスファルト舗装をしただけの通路に、テーブルやベンチがところ狭しと置かれていましたが、ウッド・デッキができて、雰囲気のある空間になりましたね。


(ウッド・デッキ)

 通路の真ん中にあった木々も、うまくウッド・デッキに収まっています。デザイン・コンペを競りぬいた設計とのことで、正門からキャンパスに入って少し歩き、こども園の方を見渡したときの景観が私も大好きです。

 さて、デッキに上がる階段に置かれているのが、写真に写っている猫の置物です。デッキに上がる人たちを歓迎しているようにも、狛犬のように魔除けにも見えます。もともと猫の置物は、8号館の前に車が入らないように置かれたものでした。赤い三角ポールやチェーンつきポールを置くのは、景観を損ねるので、他に何か方法はないものかと考えていたところ、思いついたのが、猫の置物。いくつか通路の入り口付近に置いて、車の侵入を防いでいました。ところが、残念なことに車の運転席からは、道路にペタッと座っている猫(の置物)が見えにくく、車が乗り上げたり、一部が欠けたりしてしまったりしたものも多かったようです。ウッド・デッキができたので、それまで通路を守ってくれていた猫(の置物)達への感謝の気持ちを込めて、今はデッキの階段で皆さんを見守ってくれているということです。粋な計らいですね!

元宋の『赤』 [2017年12月15日(金)]

 キャンパス内には、いろいろな所に由緒ある絵画や美術品が飾られています。その中で、とても印象的なのが、上の写真の絵画です。この絵を見たことがありますか?

 奥田元宋の作品です。11月10日のブログで紹介した『歓びの像』の作者で人形作家の奥田小由女の夫です。1912(明治45)年に広島に生まれ、上京して画家生活を始めましたが、戦争が激化して1944(昭和19)年に故郷の広島に疎開しました。第5回新日展で文部大臣賞を受賞した『磐梯』により、1963(昭和38)年には日本芸術院賞を受賞しています。1974(昭和49)年には日展の常任理事となり、1975(昭和50)年の『秋嶽紅樹』で、「元宋の赤」を確立したと言われ、自然の風景を印象的な赤色で描くようになりました。1984(昭和59)年には文化勲章を受章しています。風景画に新しい表現をもたらした奥田元宋は、1977(昭和52)年に日展理事長に就任し、1996(平成8)年には、銀閣寺の弄清亭障壁画を完成しましたが、2003(平成15)年に逝去しました。

 写真の作品も、『元宋の赤』と呼ばれる独自の赤色で描かれています。『魁夷の青』で有名な画家で元宋と親交のあった同時代の東山魁夷と並んで、日本画壇を代表する画家と称されています。

 さて、写真の作品には『秋嶽晩照』という題がつけられています。1988(昭和51)年に奥田元宋氏の特別のご厚意により、本学に寄贈されたもので、1979 (昭和54)年10月発行の『昭和学報』には、次のように紹介されています。「日本画という伝統的手法の中に、独自の美の世界を築きあげた氏の、文字通り生命の炎を削るようにして生まれた、真赤に燃える山に、静かに見入る私達に、氏は何を語りかけてくれるのだろうか。」
 秋、日が暮れて静まりかえった山、そこに立つ燃えるような真っ赤な木々。記念講堂のロビー正面にありますので、是非、開演前にゆっくりとご覧ください。

AEQUABILITER ET DILIGENTERとFIAT LUX [2017年04月14日(金)]

 図書館のある8号館の正門側入口の左側の外壁にAEQUABILITER ET DILIGENTERと、FIAT LUXという言葉が掲げられています。

(8号館の正門側入口)

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 はじめのAEQUABILITER ET DILIGENTERは、キケロの「兄弟クゥイーントゥス宛の手紙Ⅰ」の中にあるもので、「着実にして勤勉」という意味であることが、本学の図書館のサイトhttps://swu.ac.jp/fac/lib/use/u_facility/u_collectionにあります。イギリスの詩人、ジョン・ミットフォード(1782-1831)の詩句に由来があることも『昭和女子大学90年史』に記述されています。現在の6号館にあった旧図書館の入り口に掲げられていたものをここに移転しました。本学創立者人見圓吉先生が、図書館に相応しい言葉を探すように、当時本学でご指導をいただいていた国語学者の吉田澄夫教授に依頼して、この言葉に巡り合ったようです。

 もう一つのFIAT LUXは、旧約聖書の創世記第1章にある、次のようなことばからの引用で、「光あれ」という意味です。昭和女子大学図書館報の名前にもなっています。

   In principio creavit Deus caelum et terram. 創めに神が天と地を造った。

  Dixitque Deus: “Fiat lux!” Et facta est lux. 神は云った。「光あれ」。すると光ができた。

 宗教的な意味で「光あれ」がどのような意味を持つかは別として、混沌とした闇の世界に光明をもたらす光は、「開講の詞」にある、「陰惨な雲」に覆われた世界に差し込む「一道の光明」であり、「文化の道を歩み出すべく、互いに研き合わなければならない」という意味が込められたことばと解釈できるのではないでしょうか。

 この句は、その昔、今の学園本部館の近くにあった近代文庫の入り口に掲げられていました。

 これら二つのことばは、共にラテン語ですが、全く出典も違い、初めに刻まれていた建物も違いますから、一続きのものでないことだけは誤解の無いように。

 創立者の人見圓吉先生は、晩年になられても、毎晩遅くまで、近代文庫や図書館で研究を続けられていたと伺っています。図書館は静かにものを考え、研究に打ち込める場所だったのですね。現在では、自宅や学外のどこからでも、PCがあれば本学の教職員や学生は、図書館の情報を見ることができます。また、図書館で調べなくても、様々な情報源を活用して情報をとり出すことも簡単に即座にできるようになりました。しかし、そうした知識は、その場だけの単なる情報として終わってしまうことが多く、本をじっくりと考えながら読んで得た知識とは、違うように思いませんか。

キャンパスで迷った人、ありませんか? [2017年02月10日(金)]

 学外の方が参加される講演会などのイベントで、会場の場所がわからなくて困っていらっしゃる光景をキャンパスで目にすることがあります。学内の者でも、いつも使っている建物にある教室はすぐに分かりますが、主に他の学部・学科が使用している建物内にあるホール等で行われるイベントに行きたい時には、少し余裕を持って会場に行かないと途中で迷って遅刻しそうになることもありますね。
 
 特に大学2号館とその東棟、80年館とその西棟は、しっかりと確認をしておかないと、途中で迷ってしまいそうです。大学2号館とその東棟は繋がっていませんが、80年館と西棟は繋がっています。「こんなところに?」と思う教室をご紹介したいと思います。
 
 先ず、大学2号館の東棟寄りの階段、つまり、国際交流センターに向かって右手の建物に沿った間の階段を上がって左手に扉があります。ここから入ると、大学2号館2階の2L02演習室の後ろに直に繋がっています。ですから、ここは、むやみに開けないようにしましょう。また、例えば現代教育研究所がある東棟の2階以上に行きたい場合、東棟の玄関を入って左手に2つ階段が並んでいますが、これはどちらを登っても5階まで同じように到着しますので安心して下さい。
 
(大学2号東棟の階段を上がったところ)
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 さて、80年館です。ここは、地下1、2階が図書館の書庫、1階が学生ホール、2階が図書館の事務室、3、4階が図書館開架閲覧室、6階にオーロラホール(6L01)とコンピューター教室が並んでいるので、かなり利用者が多い建物です。図書館やオーロラホールに行くには、主に、正門から光葉博物館に向かって右の東側エレベーターを利用する方が多いのですが図書館以外に行くには、学生ホールの先の西側エレベーターも利用できます。この西側エレベーターを利用すれば、細い廊下をちょっと歩くだけで、どの階でも80年館西棟に繋がっています。もちろん西棟専用のエレベーターもありますから、80年館は3基のエレベーターが利用できることになります。東側のエレベーターはいつも混むので、ちょっと遠回りして他の2基を利用すると便利かもしれません。西棟には、6階にコスモスホール(6L41)があります。ここは大きな階段教室で、様々なイベントの会場になりますが、実は両方の入口が前方、つまり講演者,講義者が立つ側にあるので、途中の出入りがしにくいので注意しましょう。同様に5階の5L44もコスモスホールより少し小さい階段教室です。この教室への入口は、「えー、入っていいのかしら?」と思わせるようなところにありますよ。

(80年館西棟5L44教室入口)
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 ということで、学生数が増え、教室も増えましたが、建物の場所や名称が分かりにくくなってしまいました。実は来年度に向けて、計画をしていることがありますので、楽しみにしていてください。

新校舎が姿を見せました [2016年12月16日(金)]

 昨年の11月から、校門を入ってすぐ左、創立者記念講堂の手前の歩道が通れなくなっていました。もともと、あまり幅の広くない歩道と車道でしたから、そんなに不便さは感じていませんでしたが、壁の向こう側には一体何ができるのだろうかと思っていた方も多いと思います。
 
 いよいよ、その姿を見せました。昭和女子大学の新校舎です。体育館のフロアもある3階建てのビルで、健康デザイン学科のほか、来年度新設の食安全マネジメント学科も入ります。食安全マネジメント学科では、食品の安全性や栄養学などに加えて、フードビジネスを学び、卒業後は、食品系の企業、外食産業への就職や、レストラン経営などを目指す人が多い学科になることでしょう。

(工事中の校舎とトルストイ像)
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 本学の歴史を振り返ると、1920(大正9)年に歴史の第一歩を踏み出した日本女子高等学院の課程を1946(昭和21)年に引き継いだ日本女子専門学校が、1949(昭和24)年に新学制によって昭和女子大学と改め学芸学部(国文学科、英文学科、被服学科、家政理学科)を設置した時が家政系学科の始まりといえるでしょう。1953(昭和28)年には、学芸学部が文家政学部(日本文学科、英米文学科、被服学科、生活科学科)に改められ、さらに1962(昭和37)年には、生活美学科が設置されています。1978(昭和53)年には文家政学部が、文学部と家政学部に分離。1994(平成6)年に家政学部が生活科学科となりました。2009(平成21)年には、生活科学部に健康デザイン学科を設置。生活科学科が管理栄養学科となりました。そして、2017(平成29)年には食安全マネジメント学科が生活科学部に新設されることとなったのです。本学にまた新たな学びの拠点ができます。
 
 校門を入ると左手に、白壁のシンプルで美しい新校舎と記念講堂が並ぶと、きっと壮観に違いありませんね。キャンパスもぐっと広くなります。新しい建物で学ぶ新しい学科。食安全マネジメント学科に将来の夢を抱いて、たくさんの受験生が集まり、新入生の皆さんが大いに成長されることを期待しているところです。
 
(新校舎と並ぶ人見記念講堂)
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エル・カミーノ・ベル [2016年12月02日(金)]

(本学にあるエル・カミーノ・ベルベル部分の拡大写真)
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 この鐘は、キャンパスのどこにあるかご存知ですか?
 
 アメリカ合衆国カリフォルニア州を南北に走る国道101号線を、エル・カミーノ・レアル(El Camino Real)、現地の日本人は、『カミーノ街道』と呼んでいます。この名称はスペイン語で、“レアル”は皆さんの中でもファンの多い、スペインのサッカーチーム、“レアル・マドリード”の“レアル”と同じ、「王」の意味です。“カミーノ”は「道」。そして、エル・カミーノ・ベルは、この「(スペイン国)王の道」沿いに建てられた修道院の鐘のことを言います。
 
 まず、アメリカの国道の一部が、なぜスペイン語でエル・カミーノ・レアルと呼ばれているのか、そのあたりの歴史から振り返ってみましょう。1542年、日本では徳川家康が生まれた年に、ポルトガル人がサンディエゴ近辺に漂着したのを皮切りに、その後来航した人々が彼らの守護聖者の名前、サンディエゴをそのあたりの地名として植民地開拓が始まりました。1769年と言えば日本では織田信長全盛の時代ですが、その年から、当時スペインに支配されていたメキシコから聖フランシスコ修道会の修道士たちが次々とサンディエゴの南に入り、道沿いに修道院を建設しながら、北へ北へと進んでいきました。彼らの布教活動は、歴史的には聖書を武器とした侵略に近いものだったとも言われています。一方で修道士たちは、土地の開拓と共にブドウを栽培しワインの生産も始め、現在のカリフォルニアワインの生産にもつながったと考えられています。この道はサンフランシスコの北まで繋がっていて、1906年には21の伝道所が建設され、牧場や畑を持つ修道院も多くありました。この21の伝道所を結ぶルートがエル・カミーノ・レアルです。
 
 1810年には、植民者支配に対する農民反乱として始まったメキシコ独立戦争に勝利し、メキシコが独立しました。しかし、1846年から約2年間のアメリカ、メキシコ戦争ではアメリカが勝利し、この「エル・カミーノ・レアル」を含むカリフォルニアは、アメリカの領地となったのです。
 実は、聖フランシスコ修道会が進出した土地には、サンディエゴ-サンフランシスコ間だけでなくアメリカのあちこちに同名の道があるそうです。また、1900年頃には、この道路はカリフォルニアの砂漠を迂回して行く荒れ果てた道となってしまったという記録があります。1900年初頭は、まだ蒸気自動車が主流であった中、ガソリン自動車が誕生し、フランスでは貴族たちの乗り物として、一方、広大な国土を持つアメリカでは広く大衆が馬車に代わる移動手段をとして、急激に利用者が多くなりました。州の自動車協会では「道路整備の日(Road Building Days)」を設けたほどでした。特に「婦人連合会(General Federation of Women’s Club)」が、歴史的価値のある道路遺産を失くしてしまわないように、また、ガソリン車社会となっても安全な道となるよう、継続的に努力を重ねたとの記録もあります。その後20 世紀に入って この道筋を確認し、道路に沿って伝道所の象徴である鋳物のつり鐘、ミッション・ベルが1マイル毎に450個所建てられたそうです。※この道標の柱は羊飼いの持つ杖を模していて、高さ11フィート(約3.3m)からベルが吊るされています。
 
 さて、キャンパスの中で、そのミッション・ベルのレプリカがあるのは「昭和之泉」です。これは第2代理事長の人見楠郎先生が、サンディエゴ市から譲り受けたものだそうです。
 
(昭和之泉のエル・カミーノ・ベルの写真全体像)
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 同じ釣鐘は、サンディエゴと姉妹都市提携を結んだ横浜市の山下公園にもあります。また、吹奏楽に詳しい方は、アルフレッド・リードの吹奏楽曲「エル・カミーノ・レアル」をご存知のことでしょう。アメリカに住むリードが、国道のエル・カミーノ・レアルからイメージして作曲したのかもしれませんね。楽隊を従えたスペイン国王の豪華絢爛な行列が、「国王の道」を進んで行く様子を思い浮かべながら聴いてみると良いでしょう。
 エル・カミーノ・ベルから、いろいろな話になりました。小さな知識の点(Steve Jobsはdotと呼ぶ)も、繋ぎ合わせていくと次々と広がるものです。私は、サンフランシスコ州立大学大学院の修士を1977年に終えましたが、サンディエゴには、ドライブしたり、ものすごく広い農園を持つ豪邸の留守番のアルバイトをしたりしたことがあります。皆さんは、「昭和之泉」にあるエル・カミーノ・ベルを見て、どんなことに思いを馳せるのでしょう。

野に出でよ [2016年11月25日(金)]

 私たちの年代の卒業生にとっては、学寮と言えば茅ケ崎や大磯の寮を思い出します。望秀学寮はもちろんのこと、東明学林もまだ出来ていなかったからです。神奈川県大井町にある本学の研修施設「東明学林」は1977(昭和52)年の3月に竣工式を迎えました。

(東明学林から望む富士山)
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 東明学林の「東明」とはもちろん、創立者人見圓吉先生のことで、先生の雅号です。東明学林は酒匂川を眼下に見下ろす12万平方メートルに近い自然の山の傾斜地をうまく利用して建てられた白亜の寮舎です。
 
 学林の入口近くには、創立者人見圓吉先生の詩碑があります。それは、富士山が一番美しく見える所に置かれていて、「ふるさとの碑」と名付けられています。先生の生まれ故郷、岡山産の赤花崗岩には、私の大好きな詩が刻まれています。
 
(ふるさとの碑)
ふるさとの碑

  
        人見東明

  
野に出でよ
あかときの光
草の葉 露にぬれ

地を踏め
やわらかに また
冷やゝかな
地をふめよ 足うらで

風さわやかに
木の葉を揺り
鳥の胸毛をふく

空を見よ
うつくしき空に
雲はたゞよう

野に出でよ 愛の野へ
野は自然の胸
つねに静かにして
安らかなり

 
 もうすぐ夜が明けそうな気配をわずかに見せつつも、まだ薄暗い「あかとき」。露のおりた草の中に足を踏み入れると、ひんやりとした大地を足裏に感じる。そんな感覚って、いつ体験したかはすぐに思い出せなくても、なんとなく分かりますよね。しっかりと足裏で大地を踏みしめると、いつも変わらずに自分を支え抱いていてくれる大自然の力が体に沁み込んで来るように思いませんか。
 
 東明先生たちと早稲田詩社を結成した野口雨情の田園詩集『枯草』の中に、「踏青(とうせい)」と題した詩があります。次はその1節です。
 

君よ青きを踏みたまへ
いざ野に出でて踏みたまへ
踏めば緑の若草に
ああ春の香は深からむ

 
 踏青とは、春の青草を踏んで遊ぶことや春に行われる郊外の散歩のことで、唐詩ではよく用いられることばだそうです。東明先生の詩も春に詠まれたのでしょうか。
 
 この歌碑の横には「学父の碑」があります。そこには東明学林開設当初から、創立者の分骨が祀られています。そして1995(平成7)年の3月には、これまで別々の場所に納められていた学母人見緑先生の分骨も合祀されました。毎年5月にはどなたでも東明学林内のツツジの花を楽しんでいただけるイベントもあります。是非、お訪ねください。そして、東明先生の歌碑と校祖夫妻の碑にお参りし、そこから正面に見える富士山を堪能してください。
 
(学父の碑)
学父の碑

「学父の岩」と「学母の岩」 [2016年10月28日(金)]

 「校訓の巌」と呼ばれる創立者記念講堂の横にある青色の油石と同時期に運びこまれたのが、大学5号館の入り口右手に置かれている、「学父の岩」です。
 
(学父の岩)
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 そしてその右隣には、30トンの緑色の石があります。これは、学母人見緑先生の生まれ故郷、四国愛媛県産で、伊豫青石とも呼ばれている石です。

(学母の岩)
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 名前の通り晴れた日には緑色に、そして、雨に濡れると青色に輝き、模様も複雑に変化するように見えます。伊豫青石の産地には昔から有名なお寺も多く、きっと弘法大師や空海も、2億年近く前からさまざまな自然の力を受けて形成されたこの石の岩山を歩いて四国を巡ったのではないでしょうか。紀伊国屋門左衛門の屋敷を岩崎弥太郎が買い取って今は都立「清澄庭園」として開放されている回遊式林泉庭園には、全国から集めた伊豫青石等の名石が数多く配置されているそうで、この伊豫の石は数々の名庭にも景石として使われています。
 
 「学父の岩」と「学母の岩」のそばには、春を告げる梅の花も咲きます。また、二つの岩の前には、サツキが二株植えられていますが、これらはもともと校祖が鉢植えを購入して植えられたものだそうで、35年以上たった今ではしっかりと根をおろし、5月の声を聞くと、可愛いらしい花を咲かせます。サツキは「皐月躑躅(サツキツツジ)」とも呼ばれ、ツツジ科。旧暦の5月(皐月)に咲くことからその名がつき、俳句では「夏」の季語です。ツツジよりやや遅く咲き、6月の終わり頃まで、紅色、ピンク、絞りなどの少し小さめの花をつけます。
 
 学園のいろいろな場所に石や岩が配置されています。7人の妖精を探すのも楽しいことですが、さまざまな謂れのある石や岩を探して歩くのも楽しいのではないでしょうか。
 
(「学父の岩」と「学母の岩」の傍らに咲く梅)
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校訓の巌 [2016年10月21日(金)]

 創立者人見記念講堂の入り口右手に、大きな岩(巌)が置かれているのをご存じですか。キャンパスには何か所かに大きな石が置かれていますが、その中でこの石はもっとも巨大です。45トンもあります。45000キロですから、45キロの体重の人が1000人集まった重さですね。
 
(講堂前の校訓の巌)
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 これは学園創立60周年にあたる昭和55(1980)年に北海道日高山中から運ばれた青色の石です。北海道を代表する名石の一つで、神居古潭石(かむいこたんいし)が正式な呼び名のようです。庭石として全国的に名高いのは、大変に硬く、「油石」とも呼ばれ磨かなくても滑らかな光沢に富んでいる石だそうです。北海道、日高の変成岩層が石狩川の急流と交差することでこのような特別な石が形成されるとか。神居古潭石自体の色はさまざまのようですが、本学にあるのはスクール・カラーの青色で、特に雨に濡れた時のみずみずしい色は、素晴らしいものです。
 
 創立者人見圓吉先生が、記念講堂の前にいつも笑顔で、物静かにどっしりと座っていてくださる、そんな風情のある青い石。ここを通る時には、校祖の学園への祈りを思い出したいものです。