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創立者が理想としたトルストイの教育 [2020年03月13日(金)]

 レフ・トルストイは、知識を詰め込むことに重点を置いた教育に反対し、子どもたちが自ら問題意識を持てるよう手助けすることが教育の本質であると考え、ヤースナヤ・ポリャーナに農民の子どもたちの学校を建てて自ら教えることでそれを実践しました。そして、人と人、自然と人間との調和を大切にし、平和を愛し、仲間を互いに尊敬し、労働や奉仕をいとわないことを教えました。子どもたちが自然に関心を持ち、さまざまな感動を得ることができるように、野外での教育にも力を入れました。
 昭和女子大学の歴史は、詩人人見圓吉が、レフ・トルストイの理想とする、「愛と理解と調和」に教育の理想を見出し、緑夫人とともに女子教育の道を歩みはじめたことからはじまりました。
 創立者は『学園の半世紀』にこんなことを書いています。「家内がしきりにすすめたのが、トルストイの学校である。彼は軍職を退いてヤースナヤ・ポリャーナに塾のような形の学校を建て、午前中に学科を授けて午後は近隣に病める者、傷ける者、貧しき者、老いたる者など(中略)の家を訪ねて、食を与え、衣を与え、看病し、掃除し、洗濯するなど養護に当たった。人々はこれをよろこび感謝したと言う。こんな学校があって、愛と理解と協調を旨とするならば、どんなに楽しい事であろう。(12頁)」

 トルストイは『国民教育論』(1984年 トルストイL. N.著 昇曙夢、隆一訳 玉川大学出版部)に、その教育の理想を次のように書いています。「上から強制的につくられた学校は、羊の群れのための羊飼いではなく、羊飼いのための羊、なのである。学校は、児童がつごうよく勉強できるように作られているのではなくて、教師がつごうよく教えられるように作られている。」そして、教育を授けるものにとって、何が良くて何がまずいのかがわかるために、教育を受ける側は、自分の不満を表明する完全な権利を持つべきであり、教育学の基準はただ一つ自由のみである、とも語っています。
 子どもたちに自由を与えるというのは、子供たちが好き勝手にやる、という意味ではありません。子供たちの天性の可能性を引き出す、伸び伸びとした教育を行うことだと思います。

 さて、トルストイはどんな場所で教育をしていたのでしょうか。
 トルストイの最初の学校は、ヤ―スナヤ・ポリャーナのトルストイ邸にあります。

最初のトルストイ学校

 トルストイは、モスクワから165 km南にある、ウパ川沿いに位置する都市、トゥーラの郊外の豊かな自然に恵まれたヤースナヤ・ポリャーナで、伯爵家の四男として生まれました。祖先は父方も母方も歴代の皇帝に仕えた由緒ある貴族で、富裕な家庭ではありましたが、2歳の時に母親を、9歳のときに父親を亡くし、引き取ってくれた祖母も翌年亡くし、後見人になった叔母もその後しばらくして他界。幸せな幼年時代とは言えませんでした。入学したカザン大学も1847年に中退し、この年、広大なヤースナヤ・ポリャーナを相続し、農地経営に乗り出しましたが、これにも挫折しました。1859年、27歳の時に、コーカサス戦争から戻り、領地に、学校を設立し、農民の指定の教育にあたりました。強制を排除し、自主性を重んずるのがその教育方針でした。翌年から1861年まで、再び西欧に旅立ち、ヴィクトル・ユーゴー、ディケンズやツルゲーネフも訪問しています。1862年には、トルストイの活動を危険視した官憲による妨害で、トルストイの学校は閉鎖されてしまいました。しかし、トルストイの教育への情熱は生涯変わりませんでした。
 同年34歳で18歳の女性ソフィアと結婚し、これ以降地主としてヤースナヤ・ポリャーナに居を定めることになり、夫婦の間には9男3女が生まれ、ソフィア夫人はトルストイの粗原稿を浄書するのを常としていたそうです。『戦争と平和』執筆終了後、『アンナ・カレーニナ』の執筆にかかる前に、トルストイは自ら初等教育の教科書『アーブズカ』を作成しました。1872年に完成し、1874年には国民学校図書として認可を受けています。『トルストイのアーズブカ 心をたがやすお話』として本学に事務局がある、日本トルストイ協会が日本語訳を新読書社から出版しています。
 世界的名声を得たトルストイでしたが、『アンナ・カレーニナ』を書き終える頃から人生の無意味さに苦しみ、自殺を考えるようにさえなりました。ヤースナヤ・ポリャーナでの召使にかしずかれる贅沢な生活を恥じ、夫人との長年の不和にも悩んでいました。ついに1910年に家出を決行しましたが、鉄道で移動中悪寒を感じ、小駅アスターポヴォ(現・レフ・トルストイ駅)で下車し、その1週間後の11月20日に駅長官舎で肺炎のため、死去しました。82歳でした。葬儀には1万人を超える参列者があったといわれ、遺体はヤースナヤ・ポリャーナの静かな森の中に埋葬されています。

ヤ―スナヤ・ポリャーナのトルストイ(1828~1910)の墓

トルストイ邸入り口の門

トルストイの家(現在は博物館)

博物館の一室

 また、博物館には、屋敷の他に、トルストイが設立した学校や、トルストイの墓地を含む公園などがあります。第二次世界大戦の間は、この地所はドイツ軍に占拠され荒らされてしまいましたが、貴重な遺品などはそれ以前にソヴィエト政府が別の場所に移し保管していたため、戦後、屋敷はトルストイが生きていた頃と同じように復元され、ヤースナヤ・ポリヤーナは、旅行者に非常に魅力的な場所となっています。 
 創立者は『学園の半世紀』で、こんなことも書いている。「これから迎えようとしている社会の新しい五十年は、どのようになってゆくのか想像もつきません。」
 いよいよその五十年目に当たる創立100周年を迎えます。皆さんは、その先の100年後、どんな昭和女子大学の姿を想像しますか。どんな昭和女子大学にしたいですか。

東明学林 [2020年03月06日(金)]


 豊かな水と緑に恵まれた神奈川県西北部の足柄地域東側の大井町に本学の学外研修地の一つ、東明学林があります。足柄山系や箱根外輪山の美しい山並に囲まれ、足柄平野と富士山そして相模の海が一望できる、雄大な樹林に囲まれて高台にあります。この地を研修寮の建設地として購入することが決まってすぐ、当時の理事長人見楠郎先生が数名の教員に声をかけてくださり、車に乗って出掛け、大井川の対岸からこの山の斜面を眺め、どんな建物ができるのかを、満面の笑顔でお話してくださったことを思い出します。完成した東明学林には、教室、ホール、食堂、スポーツ施設も備わり、学園の子ども園から大学までが研修学寮地として利用するようになりました。

「東明」は創立者人見圓吉先生の雅号です。東明学林が開かれたのは、今から43年前の1977(昭和52)年、学寮の緑声舎が完成したのと同年のことでした。創立者の愛した雄大な富士山が正面に見える地です。それから何十万人もの学生、生徒、児童たちが学林を訪れ、山の斜面には美しいつつじの花が咲き、おいしいみかんが実る研修地となりました。開設されてしばらくは、酸っぱいみかんしかできないので、「未完の学寮」などという呼び名もあったとか。

斜面のつつじは、世田谷キャンパスで挿し木をして、東明学林に移植しました。訪れた生徒や学生が斜面を耕し、雑草を取り、肥料を施す「労作」のおかげで、今では、つつじの花の時期になると、地域の方々にも学林を開放して楽しんでもらえるようにまでなりました。滝の水が流れ、東京キャンパスから運ばれた鯉が泳ぐ「見返りの池」、夏には蓮根の花が咲き、冬には蓮根ができる「蓮池」、水車の回る「水車池」などのほとんどが、ここで学寮生活をした人々の手によって創られました。サツマイモの苗を植えるのも、茶摘みも簡単な作業ではありませんが、製茶されたお茶が次に東明学林に来る人々の喉を潤し、サツマイモも秋になると、こども園のこども達が大喜びで掘り出す姿を思い描きながら、自分たちの作業が何かの形で、他の人たちの役に立つことを思い描いて、今でも楽しく作業をしています。

◆校祖の碑とふるさとの碑
学園の創立者 人見圓吉先生は、1974(昭和49)年に亡くなられたので、この建物を見ていたくことはできませんでしたが、より豊かな自然に接することの出来るこの地を教育の理想の場として選んだことに満足されていると思います。学林の正門の少し手前にある「黎明(れいめい)の碑」には、創立者の詩「森はふかし」が刻まれています。

「黎明の碑」

森はふかし  『人見東明全集 第三巻』326-327頁
いばらの道また遠い
入りがたけれど
かなたには不思議の光
小暗き谷の底を
青白く。

なべては
影のごとく消ゆべきに
不思議なる光のみ
移り行く
とこしえにかがやきて。  

「学父母の碑」と「ふるさとの碑」は、東明学林でとても大切な場所です。創立者は富士山をこよなく愛したため、これらの碑は富士山を見るのに一番よい場所に建てられています。「ふるさとの碑」は創立者の故郷の岡山産の花崗岩を使い、創立者の詩「まことに静なり」が刻まれています。雄大な富士の山を見上げながら読む詩には、自然にふれながら自然の中で時を過ごすことの大切さを改めて教えられます。

静かなり 人見東明 『人見東明全集 第三巻』223-224頁

野に出でよ
あかときの光
草の葉
露にぬれ、

地を踏め
地は自然の肌
柔らかにまた冷ややかな
地をふめよ、足うらで。

風さわやかに
木の葉を揺すり
鳥の胸毛をふく。

空をみよ、美しき空に
雲はただよう。

野に出でよ、愛の野に
野は自然の胸
つねに静かにして安らかなり。  大正7年7月

「柔らかにまた冷ややかな地をふめよ、足うらで」と読むと、裸足で冷たい大地を踏みしめる感じが伝わりますね。どんなことがあっても大自然はつねに変わらず「静かにして安らか」なのですね。

緑声舎 [2020年03月02日(月)]

 緑声舎は1975年に起工され、1977年に開寮となりました。創立者の人見圓吉先生を補佐し、本学初の「葵寮」の初代寮監長となり、30年にわたり学寮の礎を築かれた学母の人見緑先生のお名前に因んで緑声舎と名付けられました。

 A棟とB棟があり、A棟には、葵、藤、茜寮が、B棟には、橘、桂、桜、楓寮があり、各寮約100名が生活し、全寮を合わせると約700名の寮生の集う場所でした。多くの先輩たちがここで生活し、同窓生が集まると、いろいろな思いで話に花が咲きます。それから37年後の2014年、緑声舎は閉寮となり、同年4月に学生会館がスタートしました。

 1993年4月から1995年3月まで学寮部長を務められた加藤澄江先生は、母校の教員となられて10年ほどたった時に、当時の大学生のために現在の昭和の泉の一画に新築した橘寮の寮監をされました。その時の寮監長が人見緑先生で、厳格な中にも優しさを秘めたお人柄で、その後の加藤先生の寮監としてのロールモデルになったそうです。その緑先生のお名前を取った「緑声舎」に足を踏み入れた時には、「時代の流れを振り返り感無量であった」と『昭和女子大学緑声舎―37年の軌跡―』に書かれています。

寮内での様々な活動
『昭和女子大学緑声舎―37年の軌跡―』

春はやっぱり梅?と桜ですね [2020年02月21日(金)]

 2月の始めに学園本部前の枝垂梅(しだれうめ)のつぼみが少し膨らみかけたのを見て、「春が近いな」、と思ったばかりでした。

 その枝垂梅がなりたくさんの蕾を開き、なんとなく枝垂梅らしくなってきたので、ブログで紹介したばかりです。

 今週は暖かい日が続いたもので、もう、こんなにきれいに咲きそろいましたよ。

 枝垂梅には一重咲きの白色で中輪の「満月枝垂」、同じく白色で八重咲きの「白滝枝垂」など、10を超える種類があるのだそうです。

 この上の写真は、学園本部前の枝垂梅の花を拡大したものですが、多分、呉服枝垂(くれはしだれ)か藤牡丹枝垂(ふじぼたんしだれ)のどちらかではないかと思います。
 学内の植栽をお願いしている業者さんにも聞いてみましたが、プロでも中々見分けがつかないそうです。


 この梅は、BSTの玄関前のものです。白い校舎に映えてとてもきれいです。梅の種類は何と数百種類以上あるそうで、品種名が不詳のものも珍しくないようです。
 しかし、何と言っても春といえばやはり、桜でしょう。これは正門の左手にある早咲きの寒桜です。幹は黒っぽい色で、花は一重の淡紅色です。桜はバラ科の花で、ウメもモモもアンズも同じ仲間でバラ科だそうです。

これから、染井吉野、八重桜と、学園の桜が順番に花開くのが楽しみですね。

梅の開花 [2020年02月20日(木)]

 今年は節分が2月3日、そして4日が立春でした。急に先週の中頃から寒い日が続き、いつになったら本当の春の兆しが見えるのかと思っていましたが、実は、もう咲き始めていました。

 学園本部前の梅の花です。白梅と紅梅がきれいですね。梅が咲き始めると「あー、春が近づいて来たな」と、ちょっと嬉しくなります。ところで、梅には、花を観賞する「花ウメ」と果実を食用にする「実ウメ」があるそうです。梅干しは、白梅の実を干して作るのだそうで、紅梅は実は小さくて苦みがあるので、梅干しには向いていないとか。一方紅梅も、幹の断面を見るとわかるそうですが、赤味がかったきれいな色をしているので、木材として良く使われるのだそうです。
 下の写真は白梅と紅梅の隣に植えられている枝垂(シダレ)梅です。

 この枝垂梅は、5~6メートル程度の高さですが、10メートル位の高さの木もあるそうです。逆に小さく育てて、鉢植えや盆栽で枝垂梅を楽しむ人も多いようです。
 梅の開花は、1月下旬から5月上旬にかけて日本列島を北上します。学園の梅が満開になるのは、きっと2月末ごろになりそうです。

トルストイ『復活』 [2020年02月14日(金)]


 レフ・N・トルストイ(1828-1920)は、ドストエフスキーと共に、19世紀ロシア文学を代表する小説家と言われています。この写真は、昭和女子大学図書館が所蔵している、1899年にサンクトペテルブルグで刊行された週刊誌『ニーヴァ(HKBA)』30巻11号(1899年3月13日)の「復活」の掲載部分を一冊にまとめたものの1ページです。大変貴重な資料です。写真の中段にある、赤い下線が引いてあるBocKpeceHie (ヴァスクレセーニエ) が「復活」というタイトルです。この写真では、タイトルの最後から2番目の文字がiとなっていますが、正式名はВоскресениеだそうで、当時は正書法改正前で、キリル文字ではないiを使ったらしいということです。

 この写真はその中にある挿絵の一枚です。
 トルストイは、弾圧されたドゥホボール教徒をカナダに移住させる資金を作ろうと、実際にあった刑事事件をもとに書きかけのままだった『復活』を、1898年9月に急いで完成させました。自宅の来客の前で完成した『復活』を朗読し、披露したそうです。そして、その年の10月に雑誌『ニーヴァ』の編集局と掲載契約を結び、連載が開始されました。
 若い貴族のネフリュードフ公爵が、自分が昔捨てた、おじ夫婦の下女カチューシャの殺人事件の裁判に陪審員として出廷したことから『復活』は始まります。実は、彼女は彼の子供を産んだために、娼婦に身を落とし、遂には殺人罪に問われていたのです。カチューシャに殺意が無いことが判明し、軽い刑で済むはずだったのが、手違いでシベリア送りの刑が宣告されてしまい、そこでネフリュードフは初めて罪の意識に目覚めて、彼女の恩赦を求め奔走し、彼女の更生に人生を捧げる決意をするというストーリーです。
 本学には日本トルストイ協会の事務局があります。 日本トルストイ協会は1996(平成8)年12月に設立され、今年で設立24年を迎えます。活動の中心は、3月と9月に開く年2回の講演会で、3月には協会報「緑の杖」が発行され、9月には総会を開催します。トルストイの影響は文学だけでなく、思想・哲学・宗教・教育にも及び、昭和女子大学の創立者、人見圓吉先生は、トルストイの教育論に共鳴し本学を設立されました。二代目学長の人見楠郎先生は、ロシアの「トルストイ学校」との緊密な交流を基に、教育面でのさまざまな活動を展開されました。こうした活動とトルストイ研究者の出会いが、誰にでも「開かれた」日本トルストイ協会へとつながりました。
 第20回トルストイを語る会が3月14日(土)午後2時から昭和女子大学内で開催されます。学生以外は500円かかりますがどなたでもご参加いただけますので、是非、お越しください。参加する場合は3月4日(水)までに上記リンク先HP記載の申込先に連絡してください。元藝術座創立百年委員会会長の岩町功氏による「演劇家 島村抱月のトルストイ観への考察~トルストイ作品の藝術座上演を通して~」のご講演があります。藝術座は神楽坂を本拠地として、島村抱月と松井須磨子を中心に1913年に結成され、第3回の公演で、トルストイ原作の『復活』を上演しました。須磨子の歌う「カチューシャの唄」は『復活唱歌』という題名でレコードが発売され、日本中に広まっていったそうです。

光葉同窓会 [2020年01月31日(金)]

 「光葉会」という名称は、1928年前後の困難な時期を乗り切ろうと、日本女子高等学院と附属高等女学部の教職員と在学生が一体の組織をつくり、その名称として使われていました。その後、1973年に、附属の中学高等学校の生徒会名称として「光葉会」を継続し、大学は、在学生を除いた卒業生の会を「昭和女子大学光葉同窓会」と呼ぶこととなりました。当時の校長 加治いつ先生は、この名称について昭和47年の『学園の半世紀』で『「光」とはヒカリで、学と徳と力のあらわれであり、「葉」とは年代とか時代を意味している』と述べています。いつの時代にも、野に山に丘に木葉が輝くように、卒業生それぞれが、学・徳・力を持って輝こう、という母校の理想が込められていると語られていました。

 1974年の5月に、母校の体育館(現在の旧体育館)で新体制となった第1回の総会が行われました。河鰭實英、坂本由五郎、人見楠郎、松平俊子、保坂都、諸先生方に顧問をお願いし、初代会長に和田艶子先生が就任されました。それから、第2代・山北浜子会長、第3代・星出為子会長、第4代・加藤澄江会長、第5代・安西美津子会長、第6代横井千香子会長、そして第7代現比護和子会長と、光葉同窓会は年々発展を続け、母校昭和女子大学を様々に支えてくださっています。本学の歴史と共に、その一端をメモしてみました。

1980年 人見記念講堂竣工に際して、第二綴帳を制作寄贈

1984年 「先哲の碑」を寄贈。

1985年 大学1号館竣工に際して、「カリヨン」を寄贈。

1986年 望秀海浜学寮竣工に際して、「大水槽」寄贈。

1990年「昭和の泉」が完成し、「光葉庵」を寄贈。現在は、東屋として使用しています。

2000年 母校創立80周年を祝して「祝金」贈呈。
2004年 「ほっとステーション(心の悩み相談室)」開設 (中・高等部の生徒対象)。
2005年 新体育館・プール建設事業を祝して、「新体育館・プール建設募金」贈呈。現在、西キャンパスにはプールも備えた10号館が建設されています。

2019年9月に使用を開始した、西キャンパスの新しいプール


2006年 「学園奨学基金募金計画」への協力
2010年 母校創立90周年を祝して「コスモス館建設募金」贈呈。

大正14年第1回卒業生15名から、創立100周年の今年度、卒業生は延べ97000名ほどになります。

オリンピック [2020年01月24日(金)]

 世田谷区が2020年東京オリンピックのホストタウンであることは、皆さんご存知のことと思います。1964年の東京オリンピックでは、本学の体育館(現在の旧体育館)をオリンピック施設として貸与しました。
 このことが、『昭和女子大学70年誌』の368-369ページに次のように記されています。「たまたま昭和三十九(1964)年に開催された東京オリンピック大会に際して、大会事務局から本学体育館を外国体操選手の練習場に貸与してほしいとの依頼があり、また、一方このオリンピック大会参観のため来日した諸外国の婦人宿舎として本学鉄筋新寮舎二十余室の貸与の依頼も受けたので、本学としては大会に協力するために快くこれらを提供した。その時に本学に掲揚されたオリンピック旗は、現在でも体育大会の度毎に入場行進の先頭を飾っている。」

 昭和39年6月20日発行された昭和学報には、こんなことも書かれています。
「新校門建設 東京オリンピック大会の開催に伴い、本学前の道路拡張工事起り、従来の校門は取り払われることとなりしため、これを機会に近代的新校門を建設。」
 

 キャンパスの体育館がオリンピックの練習場となったことは記憶にあったのですが、鉄筋新寮舎の20室あまりを外国人女性参観者の宿舎として提供したことや校門が新しくなったということは全く記憶にありませんでした。まだ、その時私は高等部生で、大学のことはわからなかったのだと思います。記録を見ると、学内寮「芙蓉寮」「弥生寮」を開設したのが、昭和37年のことで、きっとそこを宿舎として提供したのでしょう。これらの学内寮も現在は既にありません。この年は、文家政学部被服学科を生活美学科に改めた年でもありました。

 70年誌にあるような、附属も合わせた全学園の体育祭は、現在のグランンドになる前に既に取りやめとなったので、本学の体育館が練習会場となった記念に頂いた1964年の東京オリンピック旗はもうほとんど使うことが無いようです。下の写真は、オリンピック旗を持っての入場行進の様子と、その当時の全学園の体育祭の様子です。
 

真・善・美 [2020年01月17日(金)]

 昭和学園での生活の中で、身近にあった標語を思い出してみました。


 この写真は、昭和40年ごろの講堂です。現在のグリーンホールのあたりにありました。行事の度にこの講堂に集まり、舞台の上の「真・善・美」の文字をよく目に留めていました。中学生の頃は、校訓三則「清き気品、篤き至誠、高き識見」よりも、頻繁に見る機会があった言葉です。カント哲学の影響を受けた言葉だそうで、いろいろな辞書の説明を合わせると、「真・善・美」は、「知性(認識能力)、意志(実践能力)、感性(審美能力)のそれぞれに応ずる大きな価値概念を表し、人間が理想とする不変的で妥当な価値である」という意味になるのでしょうか。「真 vs. 偽、善 vs. 悪、美 vs. 醜」と、反対の意味を持つ語と対比して考えると理解しやすいと、中学生の時に先生から教えていただいたことを思い出します。

 さて、高校生になると、入学式や卒業式などの大切な式典の時には、必ずステージに飾られていた、大きな木彫りの校訓の額と校旗が印象に残っています。校訓三則は、校舎の入り口にいつも掲げられているので、読む機会も多くありました。

清き気品
あたたかく広い心で人と接すること、相手の気持ちを思いやること、礼節を重んじることなど、清楚な品位を保つことです。
篤き至誠
自分と同様に他を愛し、愛と理解と調和を実践し、誠実に日々精進することです。正しいと思うことは勇気を持って行えることも意味しています。
高き識見
志高く豊かな知識を持ち、広い公平な判断ができることです。専門とする学問に真剣に取り組むと同時に、専門以外の知識を深め自分を磨き、懸命に生きる道を探求することです。

 次の言葉は、皆さんよくご存じと思います。開講の詞に込められた創立者の思いが、この短い言葉に集約されています。

 光は明るい所では、あまり役に立ちませんが、周りが暗い時にこそ、その真価を発揮します。また、陰に隠れることなく、誰からも見えるところで光っていなければなりません。そして、どんな色でも、大きさでも、周りの人の進む道を照らしてあげられる人になりましょう、と呼びかけています。

 こうした標語やモットーは、「開講の詞」の趣旨を別の表現で表しているものとも言えるでしょう。今年は創立100周年。記念講堂の入り口に創立者直筆の「開講の詞」をそのまま写した碑文が掲げられたのが、創立60周年の年でした。「力強き、思慮ある婦人」へと成長するために、さらに高みを目指して前進していきましょう。

クスノキ募金 [2020年01月10日(金)]

 「クスノキ募金」をご存じですか。昭和女子大学のサポーターズクラブが始めました。学園には大きなクスノキが、たくさんあります。これだけ大きくなるのには何十年とかかりました。クスノキは、成長は遅いけれども、見上げるような大木になることから、募金の名前としてクスノキが付けられたそうです。
 書籍やCD・DVD等の処分に困ったときには、是非、この写真の箱に、入れてください。

 皆さんのお手元の書籍等で、不用になったものを、「クスノキ募金」用の箱に入れていただくと、その買取り金額を本学に寄付していただくことになります。ご寄付いただいた金額は、学生・生徒、児童の支援に役立てられます。この写真の箱と同じものが、1号館1階と9階の東西2か所、2号館、3号館、6号館、7号館、8号館は1階に置かれています。ISBNコードのついた書籍、CD、DVDで最近発売されたものを提供していただけると、本学への寄付金が多くなるそうです。税法上の優遇措置も受けられるそうですから、詳しいことはこちらのHPをご覧ください。

 5冊以上の書籍等をご寄付いただける場合は、指定する場所に宅配業者に来てもらえるそうです。万が一、値段がつかない書籍等があっても、ブックギフトプロジェクトとして、福祉施設や国内外の教育研究機関等に寄贈されますから、無駄にはなりません。

 2018年にスタートしたこの募金も今年で3年目を迎えました。開始以来、これまでに約60万円ご協力をいただいているそうです。今年は創立100周年になります。書棚に長いこと開かれずに置かれている書籍類や、ほとんど聞くことのないCD、見なくなったDVD等、是非、ご協力をお願いいたします。